生きたまま、ヒトの意識をコンピュータに移す方法とは?
死を介さない意識のアップロード
というわけで、お待ちかね「死を介さない意識のアップロード」である。これまで提案されてきた手法は、頭蓋から脳を取り出して、そのデジタルコピーを構築するというものだ。脳の解析精度の限界から、ほぼ実現性がないと考えるが、たとえ叶ったとしても、死を回避したい当の本人は間違いなく死ぬことになる。まさに本末転倒だ。 死にたくないのであれば、残る方法はただひとつ。生きているうちに意識をアップロードするしかない。 そのお手本となるのが、てんかん患者が分離脳手術でたどる意識の変遷だ。もともとあったひとつの意識は、死や断絶を介することなく、二つの意識へと移行する。 ここで仮に、わたしたちの生体脳半球と機械の脳半球をつなぎ、その間で意識を統合し、記憶を共有できたとしよう。そのうえで、生体脳半球側が否応なく迎える終焉のときにあわせ、分離脳手術よろしく、両者を切り離したらどうだろうか。死を介することなく、わたしたちは機械のなかで生き続けることにはならないだろうか。 もちろん、冒頭の分離脳患者にみられたような諸々の不便がでないよう、生体右脳と機械左脳、生体左脳と機械右脳といったようにたすきがけに接続したうえで、最終的には機械脳どうしを接続するつもりである。
非侵襲ブレイン・マシン・インターフェースの限界
ただ、あらかじめ述べておきたい。さきの意識のアップロードを完遂するには、その前段階として、生体脳と機械脳との間で意識を統合し、記憶を共有する必要がある。しれっと記したが、そのプロセスを、先日、惜しくもサッカー日本代表から落選した大迫勇也にたとえるなら、半端ない。 これまでも、映画やSF作品などには、生きている間に意識をアップロードする様が数多く描かれてきた。 映画「チャッピー」では、頭にかぶるだけで装着できるサイクリング用ヘルメットのような簡易な装置を使って、ものの数分で意識がアップロードされる。一方、「トランセンデンス」では、キアヌ・リーブス扮する主人公が、頭皮のうえから電極のようなものを数十個とりつけ、辞書の英単語を延々と読み上げながら意識をアップロードする様子が描かれる。 ただ、残念ながら、これらの映画に描かれるような非侵襲の計測装置、すなわち、開頭せずに頭蓋の外から脳活動を計測するような装置ではアップロードなど叶うべくもない。 脳のなかで情報処理を担うのはニューロンだ。脳の1ミリ角の立方体のなかには5万個ほどのニューロンがひしめいている。会社の部署にたとえるなら、それぞれが異なる“担当”をもち、他のニューロンに対して専用回線をひいている。特定の相手としかつながらない糸電話が複雑に張り巡らされたような状況だ。そんななか、ニューロンたちは日がな一日、じゃんじゃん電話をかけまくっている。 非侵襲計測は、分厚い壁―頭蓋骨の向こう側からかろうじて聴こえてくるオフィスのざわめきを捉えるようなものだ。当然、会話が幾万と折り重なったざわめきから、個々の会話を聞き分けることはできない。通常の解析でできるのは、新しい案件、たとえば視覚刺激が飛び込んできて、全体の通話量が増えたことを感知することくらいだ。最新の解析手法を用いれば、舞い込んできた案件のごく大まかな分類も推測できるが、一回一回の推測精度はあてにならない秋の天気予報くらいに考えておいた方がよい。何十回と同じ条件を繰り返すことにより、脳の働きについて科学的に解明できることは計り知れないが、意識のアップロードなど夢のまた夢である。