言葉が見つからないことを肯定したい――映画『きみの色』山田尚子監督×牛尾憲輔が語る創作への思い
2人が共有しているもの。「やわい部分」を大切にし合うということ
―山田監督と牛尾さんが共有しているものについて、改めて教えてください。表現への感性とか、価値観とか、どんな共通点がある感じでしょうか? 山田:ものをつくるとき、ものが生まれる瞬間の、あまりにもやわい部分っていうのを大切に理解されている方。よく話すカブトムシの幼虫の話があって。幼虫のときに人が触っちゃうと、成虫になれないことがあるんです。つまり、一番大事な時期に手を加えてしまうことの危うさみたいなものがある。そこをお互い理解し合えていて、本当にやわい部分のときに横槍を入れない、ちゃんとお互いを信じて待てる。そういうものがずっとある気がします。 牛尾:すごく大事なことだと思います。音楽でも映画でもそうですが、描いてることは全然違うのに、類型に見えるものっていっぱいあるじゃないですか。そういうことを、0を1にする、0を0.01にするような、すごくもがいてるときに口を出してしまう人がいる。 例えば、10代の子がたまたま乗ったロボットで大活躍するという新しいロボットものの作品をつくっているときに、横の人が「それ、ガンダムでしょ」って言ったら、それはもうガンダムにしかならないんですよ。「それってこれでしょ」って決めつけちゃうと、そういうものになっちゃう。それぐらい、言葉で決めつける危うさってあるんです。それはこういう作品だよねって、作品が終わった後に批評として出てくる言葉だから、そこまでは言葉があっちゃいけないと僕たちは思っています。 例えば山田さんが新しい映画をつくろうと思っているときに、高校生のバンドものの映画をやるって言ったら「でも『けいおん!』がある」って言ってしまう人がすごくたくさんいるんです。でも僕らはその危うさの感覚を共有しているし、お互いに仕事と趣味を共有しているから、そんなことは言わない。それが理解できているから、最後に映画が完成して、こういう取材で話すようになるまで、言葉であんまり説明しない。そういうことが信頼の上に成り立つという。 だから、自分がこういうものが好きで、こういうことをやりたいんだというのは、ともすれば言葉を操る人に抹殺されてしまうんだけど、それを出しても恥ずかしくない。自分が好きなものを出すのって、汚い表現で申し訳ないけど、本当にパンツを脱ぐ作業だから。本当に恥ずかしいことなんだけど、それをやっても受け止めてくれるので、さらけ出せる。これはまさにこの映画が描いていることだと思います。 ―まさに、いまお2人に語っていただいたことは、この映画のテーマにまつわる話でもあると思います。トツ子たちがバンドを組んでいる過程においても、最初の一歩を踏み出すときのためらいとか、喜びとか、そういうものがすごく大事に描かれている感じがあります。 山田:芽を摘まない、といいますか。最初に言っていただいたみたいに、言葉にならないものなんです。言葉にならない、まだ名前がついてないものを受け取っている自分たちを肯定したい。自分たちはそうやってものを好きになってきたなっていう。人に説明する時に困っちゃうかもしれないけど、それはそれでいい。言葉が見つからないことを肯定してもいいんじゃないかという気持ちがあります。