二度にわたる日本軍の朝鮮出兵は“老害”豊臣秀吉による誇大妄想的な行動だったのか?
◇ポルトガルと日本の軍事同盟が結ばれていたら? じつは、秀吉はこのときにポルトガルと日本との軍事同盟まで持ち出し、コエリョはこれに賛同している。ここから読み取れるのは、伴天連禁止令を発する以前の秀吉の発想は明国征服までであり、そのためにポルトガルの軍事力も利用しようと考えていたのだ。 ポルトガルにも明国征服(および大陸全土へのキリスト教布教)の野望があり、この時点では双方が同盟を結ぶ可能性は十分あった。しかし、伴天連禁止令以後、その発想は放棄される。 それだけではなく、スペインの支配するフィリピン、ポルトガルの支配するインドが、秀吉にとっては征服の対象となる。これは海外征服の野望という以上に、スペインとポルトガルのアジア侵略への逆襲としての世界戦略であった。 そのことはまず、1591年にヴァリニャーノがポルトガル領インド副王の親書を持参して謁見した際、秀吉側から渡された返事にも示されている。この内容はかなり激烈なもので、それをどうにか修正した形でヴァリニャーノたちは持ち帰らざるを得なかった。 この文書にはこうある。 「一度大明国を治せんと欲するの志あり。不日楼船を浮かべて中華に至らん事掌を返すが如し。其便路をもって其地に赴くべし。何ぞ遠近融を作さん乎」と明国征服が堂々と語られ、それによってインドとは近くなるのだから交流をしようと呼び掛けている。 同時に、日本は神国であり、仁の精神によって国を治めている。 しかるに「爾の国土のごときは教理をもって専門と号して、しかし仁義の路を知らず。此故に神仏を刑せず、君臣を隔てず、只邪法を囲て正法を破せんと欲する也」。 今後「邪法」を説く伴天連の布教は認めず、もし行えば「之を族滅すべし。臍を噛むことなかれ」。ただし、友好と貿易を求めるならば「商売の往還を許す」というものだった。 [『スペイン古文書を通じてみたる日本とフィリピン』を要約] どう読んでもこれは友好関係を目指すものではなく、「神国日本」の優位性を明確にした挑戦状である。 だが、この表現が多少乱暴に見えたとしても、スペイン・ポルトガルが、インカ帝国やアジア・アフリカ各地でおこなってきた虐殺と収奪、そしてキリスト教が世界唯一の真理であり、他は「邪法」であるという価値観が、その侵略を正当化してきたこと、さらに日本における伴天連の寺社仏閣への破壊行為などを考慮すれば、この時点で秀吉が「神国」という理念でそれと対峙したことにも一理はあるというべきだろう。 この強硬な意思は、文禄の役における初期の戦勝後、さらに明確に表れる。1592年5月に朝鮮に上陸した日本軍は、6月には開城を征服し、秀吉がこの時期、関白秀次らに送った書簡には、今後の征服計画が次のように記されている。 (一) 大明国を支配し、秀次を「大唐関白」とする。 (二) 後陽成天皇を北京に移し、日本帝位は良仁親王か智仁親王のいずれかにする。日本関白は宇喜多秀家か羽柴秀康。 (三) 秀吉は寧波に居所を定める。 (四) 明の次は天竺(インド)征服を行う。 寧波とは中国・浙江省の港町である。 古くは遣唐使が送られていたことで知られており、室町時代初期には日明貿易の拠点であった。秀吉はここを抑えて東シナ海・南シナ海を制覇するための拠点にすることを考えていたと思われる。 そして、先の書簡に示されていたように、秀吉はスペインが支配していたフィリピンのみならず、ポルトガルの支配するインドをも射程圏内に置いていることを明確にしている。
三浦 小太郎