ザ・パンチ×マシンガンズ、結成16年以上の漫才トーナメント『THE SECOND』準優勝コンビ対談!
松尾 ふた組ともショートネタブームには乗れたけど、先頭集団ではなかったよね。当時、スケジュールによく知らない深夜番組が入ってて「どんな番組?」って聞くと、ジョイマン、はんにゃ、フルーツポンチ、しずるとか、いわゆるAグループが「それ2週間前に出ました!」って言ってさ。 家に帰ってテレビつけたらナイツやオードリーも出てて「やっぱ俺たちは最後尾か......」みたいな。 西堀 あったよね、階級が。「人気者」「真ん中」「下」っていう3段階だったら、マシンガンズは下だった。 浜崎 僕らもです。気づいたら『レッドカーペット』の人気者たちだけで、『爆笑レッドシアター』(フジテレビ)に出てるっていう。 西堀 あれに入れなかった時点でもう負けてるもん(笑)。 ――とはいえ、当時は収入もグッと上がったのでは? 滝沢 確か俺らの最高月収が70万円ぐらい。 浜崎 僕らも一番いいときで3桁いかないぐらい。でも、劇場はもちろん、CMにも出て400日ぐらい休みなかった時期ですよ? 滝沢 1年以上じゃん! 西堀 太田プロは劇場がないから営業のギャラが大事でさ。芸歴に合わせて単価が上がっても、稼働が減ることで、ちょっとずつ収入は下がっていくの。それで気づくと息苦しくなってる。真綿で首を絞められるように。変に時間もできるから、いろいろ考えてよけい苦しくなるんだよね。 浜崎 わかります。準兄さん、やっぱり僕ら全部似てます! 西堀 別々の道だけど、見えてる景色は同じっていう(笑)。 浜崎 僕らも『レッドカーペット』が終わったら、劇場も営業も全然でしたから。 松尾 コロナの時期が一番厳しかった。後輩に紹介してもらってバイトもしてましたよ。 浜崎 僕はその頃、嫁がライブ配信でスナックのママを始めて(笑)。僕は雇われマスターみたいな感じで手伝わせてもらって生活してました。 ■過酷な環境が生んだ芸風 ――今の芸風はいつ頃から確立されたと思いますか? 松尾 ショートネタブームが終わって劇場の仕事だけになると、スベれないから新ネタをやるよりも今あるネタを改善するほうが重要になってくるんですよ。 新ネタに挑戦してスベったりして、そんなとこを劇場のスタッフさんに見られたら劇場の仕事が減っちゃうので。それで、ゆっくりゆっくり変わっていって、今の感じになった気がします。