長崎での被爆体験を語る笠利イモコさん=奄美市笠利(南日本新聞社)
8月9日午前11時3分、長崎のトンネル内の工場に雷が走り、挺身隊の多くが命を落とした。歩けるからとそのまま帰され、たどり着いた鹿児島で足に刺さったガラスを抜いた。戦後40年たって、まだ痛む左腕を調べてもらうとガラス片が見つかった。一生忘れられない記憶とともに、大切に保管している【証言 語り継ぐ戦争】
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