8月9日午前11時3分、長崎のトンネル内の工場に雷が走り、挺身隊の多くが命を落とした。歩けるからとそのまま帰され、たどり着いた鹿児島で足に刺さったガラスを抜いた。戦後40年たって、まだ痛む左腕を調べてもらうとガラス片が見つかった。一生忘れられない記憶とともに、大切に保管している【証言 語り継ぐ戦争】
■笠利イモコさん(96)奄美市笠利 【写真】左腕から取り出した1センチ大のガラス片。この付近に埋まっていた
1944(昭和19)年4月、名瀬町(現奄美市)の名瀬港から連絡船「金十(かなと)丸」で鹿児島に渡り、汽車で長崎市に向かった。「大島女子勤労挺身(ていしん)隊(大島女子挺身隊)」として三菱兵器大橋工場で働くためだ。 当時16歳で大島紬の織り子の見習い。笠利村(同)役場から徴用通知が届いた。兵隊さんと同じ「赤紙」だった。与論島や徳之島、大和村の人も一緒に行った。 奄美群島出身の約70人と三菱兵器住吉女子寮で暮らした。島唄「行きゅんにゃ加那」の節に合わせ、「会社の豆めし食いたくない」などと替え歌を歌ったものだ。向かいの山に大きなトンネルがあり、敵の攻撃を避けるために運び込まれた多くの機械が稼働していた。 大橋工場は一つの集落と同じくらい広かった。クレーンで魚雷をつり下げ、水をためたタンクに入れて検査する。その後やすりで磨く仕上げの作業を群島出身の4人一組で担当していた。 45年8月9日午前11時2分。パーッと雷のような光を見た気がする。気が付いたら血まみれで、半地下式の部屋から地上に20メートルほど吹き飛ばされていた。魚雷が爆発したのかと思った。私以外の3人は助からなかった。
工場のガラスは粉々に割れた。多くのクレーンが倒れ、大勢の人が下敷きになっていた。遺体がごろごろ転がり、「助けて」と叫ぶ声やうめき声を聞きながら走って外に出た。この時の光景は今も記憶に残っている。一生忘れられない。 長崎県諫早市の学校に収容されたものの、歩けたから軽傷扱いで治療してもらえなかった。罹災(りさい)証明書をもらい汽車にただで乗れたので、大口町(現伊佐市)を目指した。笠利出身者が疎開していると聞いていたからだ。 道中で偶然知り合った同郷者のおかげで、大阪から疎開していた兄の義常に再会できた。「神さまの助けだ」と思い、とてもうれしかった。私を捜しに長崎まで行こうとしていたらしい。 しばらく兄の家で過ごした。背中の傷を診た医師が、交換した古いガーゼがキラキラと光っているのを見て「これは何」と驚いた。工場のガラスくずがくっついていたのだ。ふくらはぎや太ももにはガラスの破片が突き刺さったまま。服にこすれればとても痛く、兄に引き抜いてもらった。
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