8月9日午前11時3分、長崎のトンネル内の工場に雷が走り、挺身隊の多くが命を落とした。歩けるからとそのまま帰され、たどり着いた鹿児島で足に刺さったガラスを抜いた。戦後40年たって、まだ痛む左腕を調べてもらうとガラス片が見つかった。一生忘れられない記憶とともに、大切に保管している【証言 語り継ぐ戦争】
この年の冬、笠利に帰った。空襲でやられ一面焼け野原になっていた。同じ集落から挺身隊に徴用されたのは10人ほど。うち3人が亡くなった。 長崎で被爆したことは隠していた。「子どもができない」といったデマが流れ、話せなかった。20代前半で結婚し、5人の子宝に恵まれた。 75年に被爆者健康手帳をもらった。「長崎県被爆者手帳友の会」の深堀勝一さん、同じ笠利出身の挺身隊員で被爆した豊田サチヱさんには、本当にお世話になった。 左肘から手首の間の真ん中付近がずっと痛く、レントゲンを撮ったらガラス片が埋まっていた。85年に日赤長崎原爆病院で取り出した。先生から「宝だから取っておきなさい」と言われ、大切に保管している。今でも押さえると痛い。 挺身隊員らの「鹿児島県原爆被爆者福祉協議会奄美支部」は毎年8月9日、奄美市のホテルに集まっていた。歌を歌うなど楽しかったが、もう会っていない。メンバーのほとんどが亡くなった。
大変な思いをしたから今は天国。二度と戦争を繰り返してほしくない。次に爆弾が落とされれば世界が全滅してしまう。 ■大島女子勤労挺身隊 軍需工場などの労働力不足を補うために徴用された女性組織。奄美群島では1944(昭和19)年に入り、14歳から25歳までの未婚者で、婚約していない女性約2500人が動員されたという。戦時下で大島紬の生産が制限されたのに伴い、手のすいた織り子が対象になった。うち長崎県に約1200人が送られ、約200人が原爆で死亡。約500人が島に帰ったとされる。
南日本新聞 | 鹿児島
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