平成事件史:戦後最大の総会屋事件(8)第一勧銀元会長を取り調べていた特捜検事はなぜ東京拘置所に向かったのか 後輩に掛けた最後の言葉「中村くん、すまない」
「耳を覆いたくなるばかりの恫喝的な捜査、取り調べの内容、調書の作成方法などに、行き過ぎがなかったか、謙虚に猛省し、第二第三の犠牲者を出さないためにも、その改善を強く要望する」(抗議文より) 村田の抗議文は、宮崎の自殺の原因があたかも「過酷な取り調べ」であるかのような内容だった。 東京地検検事正の石川達紘、次席検事の松尾邦弘はこれに激怒した。 「事実とまったく違う。許せない」 石川や松尾ら検察幹部は、弁護団からの抗議文を受け取る前に、宮崎が残していた第一勧銀弁護団にあてた遺書の内容をすでに確認していたため、抗議文の内容が「言われのない主張」であることをわかっていたからだ。 実際に宮崎の遺書にはこう書かれていた。 「今回の愚挙は自分への取り調べとは関係ありません。わたしを取り調べた北島検事に感謝の念こそあれ、不満など全くありませんでした。北島検事は紳士的で好感が持てました」 宮崎は死の直前まで、いわば敵対していた検事への配慮も忘れなかったのである。 「遺書」を見た特捜部長の熊﨑も、北島が誠実に、真摯に取り調べをしていたことを改めて確信する。 特捜部の現場は弁護団の行動に、怒りがこみあげた。宮崎と同時に事情聴取を進めていた「奥田前会長の捜査への不当な圧力」であり、「根拠のない捜査妨害」だと受け止め、第一勧銀の最高責任者である奥田前会長の関与について捜査を続けた。 村田弁護士は晩年、このとき検察に抗議したことについてこう語った。 「一流企業の幹部にはそれにふさわしい取り調べの方法があるのでは、という意味で提出した。自殺の原因を追及するつもりは毛頭なかった。特捜部に愛情があるからこそだった」 ■北島検事の「最後の言葉」 宮崎元会長の自殺を知った北島は、すぐに東京拘置所に駆け付けた。北島は自分のことより後輩の中村信雄(45期)のことが心配だった。宮崎が木島と同席した「吉兆会談」が、不正融資のきっかけとなったという核心の自白を、総務部長から引き出したのが中村だったからだ。 総務部長は当日、宮崎の送迎のために同乗しており、「吉兆会談」を知りうる立場にいた。総務部長の供述により、「吉兆会談」を契機に宮崎の指示で、第一勧銀から総会屋への「う回融資」が始まったことが明らかになったのだ。