平成事件史:戦後最大の総会屋事件(8)第一勧銀元会長を取り調べていた特捜検事はなぜ東京拘置所に向かったのか 後輩に掛けた最後の言葉「中村くん、すまない」
東京地検特捜部はその2日前から、宮崎と前会長の奥田正司から任意で事情を聴いていた。メディアを避けて帝国ホテルに泊まっていた宮崎と奥田は、ホテルから検察施設に出向き、昼すぎから午後9時頃まで事情聴取を受けた。 検事からの質問は「1992年9月4日の東京・銀座の料亭”吉兆での会談”」に集中していたという。この会食の席で、宮崎と奥田は木島力也と会い、不正融資を約束したとされるからだ。つまり小池隆一に対する巨額の資金提供の決め手となった会食だった。 だが、宮崎は特捜部の調べに対し、「記憶にない」と否認していた。 6月28日の事情聴取のあと、宮崎はいったん「帝国ホテル」に戻り、弁護団に検察から聴かれた内容を報告し、そのあと1週間ぶりに三鷹市の自宅に帰っていた。 自宅から数通の遺書が見つかり、第一勧銀宛ての遺書にはこう綴られていた。 「今回の不祥事について 大変ご迷惑をかけ、申し訳なくお詫び申し上げます。 真面目に働いておられる全役職員、そして家族の方々、先輩のみなさまに最大の責任を感じ、かつ当行の本当に良い仲間の人々が逮捕されたことは、 断腸の思いで、 6月13日の相談役退任の日に、身をもって責任を全うする決意をいたしました。 逮捕された方々の今後の処遇、家族の面倒等よろしくお願い申し上げます。すっきりした形で出発すれば素晴らしい銀行になると期待し確信しております。例年のご交誼に感謝いたします。 宮崎」 第一勧銀の「闇」を知るキーマンの自殺に、特捜部は大きな衝撃を受け、意気消沈した。自殺による捜査への影響は常に大きく、捜査手法への非難が集まりかねない。 宮崎を取り調べていたのは北島孝久(36期)だった。北島は熊﨑の「秘蔵っ子」と言われ、「金丸信巨額脱税事件」で金丸の次男の取り調べを担当するなど信頼も厚く、すでに法務省刑事局に異動していたが、熊﨑の強い希望で一連の捜査に応援として加わっていた。 そうした中、宮崎が自殺した翌日、第一勧銀の弁護団から検察幹部に「抗議文」が届く。 第一勧銀の弁護団長は大物検察OBの村田恒弁護士(10期)だった。村田はかつて「ロッキード事件」丸紅ルートの捜査に携わり、丸紅専務から「田中総理が関与している」との核心の供述を引き出した敏腕の元特捜検事だった。検察庁が主宰する若手検事への捜査研修セミナーでは村田が講師としてよく招かれていた。