平成事件史:戦後最大の総会屋事件(8)第一勧銀元会長を取り調べていた特捜検事はなぜ東京拘置所に向かったのか 後輩に掛けた最後の言葉「中村くん、すまない」
「ほかの総会屋(野党総会屋)の動きをおさえてもらえませんか」 「第一勧銀」から依頼を受けた小池は「野党総会屋」を封じ込め、「与党総会屋」としての影響力を強めることになり、その翌年の1989年から不正融資がはじまったのだ。同社は小池が野村証券株など4大証券株120万株を購入した際の「31億円」も融資していた。 そもそも木島は「第一銀行」と「日本勧業銀行」が合併して「第一勧銀」が誕生したときに、裏で仲介役を果たしたとされる。そのため、合併を成功させた第一勧銀初代会長の井上薫とは深い親交があった。宮崎はその井上薫の秘書役を務めており、木島の長男の結婚式に出席していたことも国会で追及され、出席していた事実を認めていた。 「結婚式に出たことは事実です。(木島さんの)ご子息が当行と密接な取引先の会社に勤めており、喜んで出席した」(1997年5月28日 参院予算委員会) 木島の長男は当時、神戸製鋼に勤務、結婚披露宴はホテルオークラ「曙の間」で行われ、宮崎はメインテーブルに国会議員のE議員らとともに座ったという。前述の通り、宮崎が頭取になってからは、第一勧銀幹部が木島を囲んで、年二、三回マージャン大会を開くようになり、総務部門も同社の歴代最高幹部が木島と親密であることは認識していた。木島は日頃から「何かあったら、隆ちゃん(小池隆一)に頼めばいい」と弟子の小池を引き立てた。 小池は法廷ではこう弁解していた。 「わたしは木島のダミー、かばん持ちだった。木島と第一勧銀の話し合いのなかで敷かれた事件の路線に従い、木島の指示で動いたにすぎない」 ■宮崎元会長の死 第一勧銀の元会長、宮崎邦次(当時相談役)が自宅で自殺しているのが見つかったのは、1997年6月29日の朝だった。 宮崎は救急車で三鷹市内の杏林病院に運ばれたが、意識不明のまま、午後5時59分に死亡した。67歳だった。くしくもその日は、9年前に第一勧銀の頭取に就任した記念すべき日でもあった。