「こげんお人じゃなか」“上野の西郷さん”はなぜ軍服を脱がされたのか?
「上野の西郷さん」の完成
西郷像の除幕式は、1898(明治31)年12月18日に行なわれた。西郷の孫である西郷吉之助(1906ー1997)によると、式に参列し、その銅像を見た糸子夫人は「宿ンしはこげんお人じゃなかったこてエ!(うちの人はこんな人ではなかったのに!)」と驚いたという(海音寺潮五郎『西郷隆盛(1)』朝日新聞出版)。 糸子夫人の驚きは、容貌自体よりも、服装に原因があったと捉える研究者が多い。確かに、着流しに犬を連れた姿は、当時の感覚からすれば異様である。少なくとも、人前に出るような服装ではない。よく言われる「親しみを持たせるためにあえてあの姿にした」という説は、明確な誤りである。既に述べた通り、本来は軍服姿にしたかったのだ。 糸子夫人以外にも、西郷像に驚いたはずの人々がいる。それは、一般の庶民である。彼らは、西南戦争以降、膨大な数が発行された錦絵、絵草紙などで、西郷の絵を繰り返し見ていた。それら「描かれた西郷」は、ほとんど例外なく、豊かな髭を蓄えたものだったのである。 なぜ、西郷の銅像は軍服ではいけなかったのか。そして、なぜ何の説明もなく、髭が一切ない顔となったのか。理由は明白である。西郷から「反政府のカリスマ」というイメージを完全に消し去るため、これだった。 西南戦争以降、西郷は庶民にとってヒーローとなった。政府に対する不満が、そのまま西郷への支持に繋がっていったのである。彼がこの世にいなくても、これは政府にとって穏やかならざる状態である。いつ、西郷の志を引き継いだと自称する勢力が現われるかわからないからだ。「反政府のカリスマ=西郷」を放置しておくのは、決して許されない状況だった。 かくして、西郷像は軍服を剥ぎ取られ、カリスマ性を高める髭も失い、まるで商家の旦那のようなビジュアルとなった。この銅像が完成して以降、「西郷のイメージ」から「軍人性」は消えていく。そして、いつの間にか「懐が深く親しみのある偉人」となっていった。我々がよく知る「西郷のイメージ」の完成である。 実に、1万3千もの人命を奪った西南戦争。その首謀者が西郷だったという事実は、優しげな「上野の西郷さん」からは一切感じ取れない。 (大阪学院大学経済学部教授 森田健司) 1974年兵庫県神戸市生まれ。京都大学経済学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(人間・環境学)。現在、大阪学院大学経済学部教授。専門は社会思想史。特に、江戸時代の庶民文化・思想の研究に注力している。著書に『江戸の瓦版』、『明治維新という幻想』(いずれも洋泉社)、『石門心学と近代――思想史学からの近接』(八千代出版)、『石田梅岩』(かもがわ出版)、『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『外国人が見た幕末・明治の日本』(彩図社)など。近刊に、作家・原田伊織氏との対談『明治維新 司馬史観という過ち』(悟空出版)がある。