「こげんお人じゃなか」“上野の西郷さん”はなぜ軍服を脱がされたのか?
今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」が7日にスタートしました。豪快ながらも心優しい少年が島津斉彬(なりあきら)との出会いを通して、新しい時代を築いていく展開を予感させながら初回を終えました。 このさわやかなイメージはまさに東京・上野公園にある西郷像と一致するように思えます。着流し姿で犬の散歩と、庶民的でリラックスした姿に好感を抱く人も多いのではないでしょうか? 一方、大の戦好きだった西郷が軍服を着ていないのに違和感を抱く人もいるかもしれません。そもそも「上野の西郷さん」はなぜあのビジュアルになったのでしょうか? 大阪学院大学経済学部教授の森田健司さんが解説します。 ※この記事は連載【西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」】(全5回)の第1回です。
愛される「西郷のイメージ」
幕末に活躍した人物の多くは、今も歴史ファンの心を強く掴んで離さない。彼らの激動の人生は、派手な体制変換と結びついて、抜群に魅力的な「物語」となっているからである。 今年の大河ドラマの主人公に選ばれた西郷隆盛も、幕末期に大きな働きをした一人として、高い人気を誇る人物である。いや、「高い人気」どころか、同時期に活躍した人物の中では「最も高い人気」を誇る者の一人とさえ言ってよいだろう。 しかし、我々の持つ「西郷のイメージ」は、必ずしも史実に基づいたものではない。それを作り上げる上で重要な役割を演じたのは、誇張された「江戸城無血開城」伝説や、「敬天愛人」というフレーズ、あるいは彼の言動を集めたとされる『南洲翁遺訓』という書など、いくつかある。中でも決定的なものを一つだけ挙げるならば、それは「上野の西郷さん」になるだろう。そう、上野公園に建てられたあの銅像である。 犬を連れて歩く、着流し姿の西郷隆盛。現代まで続く「西郷のイメージ」が作り上げられる上で最も力を持ったのは、疑いなくあの銅像だった。
軍服を剥ぎ取られた西郷
現代の日本人の誰もが知る「上野の西郷さん」は、1898(明治31)年に完成した。その経緯は、次の通りである。 1889(明治22)年、大日本帝国憲法発布の際の大赦によって、西郷は賊臣の汚名を除かれ、正三位が追贈された。彼が賊臣となっていたのは、1877(明治10)年の西南戦争によるものである。西郷の銅像を造る計画は、この1889(明治22)年にスタートした。中心となったのは、樺山資紀(1837-1922)や吉井友実(1828-1891)ら、薩摩出身の軍人、政治家である。その目的は、「維新の功臣」として、西郷の名誉を本格的に回復するためだった。 ところが、銅像建設の計画は、予想をはるかに超えた障害に阻まれる。特に、設置場所と銅像の服装が大きな問題となった。 設置場所は、一度は現在の皇居外苑に決まり、認可も出た。しかし、この認可は後に撤回される。華族から大きな反対意見が出たためである。その後、設置場所は上野公園に決定された。上野戦争において、西郷が薩摩軍を率いて活躍した場所だったことが、一番の決め手となった。 次に、銅像の服装である。当初、銅像は「馬に跨った西郷が、陸軍大将の軍服に身を包んでいる姿」となることが予定されていた。そのデザインについては、1889年10月15日付『東京日日新聞』紙上において、一般公募までされている。しかしその後、予算の問題で馬を除いたものに変更され、さらに西郷の服装にまで異議が唱えられた。軍服の西郷像に問題があると考える勢力が、政府に存在したのである。 実際の西郷は、「戦好き」を公言し、戦争の話をするのを好む、根っからの軍人だった。ある程度、西郷の人生を知っている向きには、これは意外な事実ではないだろう。だから、同じく戦争の話が大好きだった板垣退助(1837-1919)とは、とても馬が合ったようである。 その西郷を顕彰する銅像から、軍服を剥ぎ取ること。これは、西郷にとって最も不名誉なことに違いない。なぜ、軍服姿は認められなかったのだろうか。