戦略的な重要性を増す太平洋・島サミット
塩澤 英之
多様な国と地域からなる太平洋・島サミット(Pacific Islands Leaders Meeting、PALM=パーム)が7月16日~18日、東京で開かれた。橋本龍太郎首相時代の1997年に始まった同サミットは今回が節目の10回目。一時はマンネリ化が指摘されたが、日本外交にとって戦略的な重要性は増している。
低レベル核廃棄物投棄計画への抗議
PALMを構成するのは、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの3域に点在する14の太平洋島嶼(とうしょ)国、仏領2地域、オーストラリア、ニュージーランドに日本を加えた19の国と地域だ。このうち日本を除く18カ国・地域は「太平洋諸島フォーラム(PIF)」という地域協力の枠組みを持ち、PALMは日本とPIFが協力関係を築く場として3年おきに日本で開かれてきた。 戦前の日本はミクロネシアのパラオに南洋庁を置いて統治するなど、歴史的、人的なつながりを持つ。戦後の太平洋島嶼国は、マグロ・カツオ類など漁業資源の確保や国際会議で日本への支持を獲得する対象になっていくが、そもそも国際社会における潜在的な対日理解者であった。
ただし、日本と地域全体との関係は、1981年にPIF首脳会議を通じて行われた日本の低レベル核廃棄物海洋投棄計画に対する抗議から始まった。米国、英国、フランスの核実験場とされ、被爆した経験を持つ太平洋島嶼国にとって、核問題は現在も極めて敏感な問題である。 この抗議の後、85年に当時の中曽根康弘首相がフィジーを訪問し、投棄計画の撤回を表明する。87年には倉成正外相がやはりフィジーを訪ね、「独立性・自主性の尊重」「地域協力への支援」など後に「倉成ドクトリン」と呼ばれる協力指針5原則を発表した。こうして翌88年には笹川平和財団が独自に太平洋島嶼国会議を東京で開催し、PALM発足の呼び水になっていく。
2015年以降に質的な変化が
ここでPALMのおおまかな流れを振り返ってみたい。 第1回(1997年)から第3回(2003年)までは、相互理解の醸成に力点が置かれ、日本に首脳が集うこと自体に大きな意味があった。しかし、00年代半ば以降、太平洋島嶼国では米国、オーストラリア、ニュージーランドなどの旧宗主国からの自立が進み、国際会議に参加する機会も増えていった。こうして太平洋島嶼国にとって、3年おきに日本に集まって形式的に日本の援助パッケージを聞くだけのPALMは魅力が薄れ、実際に疑問の声が漏れてくるようになった。 この状況を受け、第2次安倍晋三政権の下で開催された第7回(15年)以降に質的な変化が生まれる。軸になったのは、16年8月に安倍首相が提唱した「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)戦略」だ。これにより、第8回(18年)からは、法の支配に基づく国際秩序の実現を目指すというPALMの一貫性が見えるようになった。21年の第9回はコロナ禍によってオンラインでの開催となったが、ここで日本側は初めて3年間の行動計画として「太平洋のキズナ政策」を示した。 マンネリ化を脱しつつあったPALMであったが、一方でコロナ禍に伴う人的交流の停滞や東京電力福島第1原発の処理水問題が影を落とした。2021年4月に太平洋島嶼国との事前の対話なしに日本が突然決定した処理水の海洋放出計画は、1981年の低レベル核廃棄物海洋投棄計画を思い起こさせた。現地メディアの科学的根拠に基づかない報道の影響も加わり、太平洋島嶼国側には日本への不信感が広がった。