「ペルシャ」を敵にすべきではない――ホルムズ海峡の文化地政学
シルクロードの終着駅
奇しくも現在、NHKのBS放送で、1980年代に一世を風靡した「NHK特集シルクロード」のシリーズを再放送している。喜多郎のシンセサイザーと石坂浩二のナレーションが、80年代の日本人のロマンをよみがえらせ、井上靖や司馬遼太郎の感慨を思い出させる。今ではああいうタイプの知識人がいなくなってしまった。ユーラシア東端の民である日本人には、遥か中国を越えてペルシャやギリシャへと通じる古代西方への憧れが強いのだが、当時圧倒的だった経済力が、そのロマンをテレビ番組として実現させたのだろう。中国との関係も円満であった。 ちょうどそのころ、僕は風土的な建築の国際調査団の一員として、地下住居ヤオトン、遊牧民のパオ、日干し煉瓦の住居などを調査するため、中国の新疆ウイグル自治区ウルムチからトルファンへとシルクロードを旅していた。まだ多くの中国人が人民服を着ていたころで、未解放区へ足を踏み入れるのに中国政府が協力してくれた。 そのころはウイグル族が中心であったが、カザフ、キルギス、ウズベク、トルクメンなど、多様な民族が移動居住し、漢民族はそれほど多くなかった。このときに出会った若いウイグル人が、現在は収容所で洗脳的教育を受けているかもしれないと思うと胸が痛む。 ペルシャはそのシルクロードの西の、日本は東の、ターミナル(終着駅)であったのだ。
ユーラシアの帯・中間部の力学
16世紀以前の、発達した建築様式(主として宗教建築)が、ユーラシアの西から東への細い帯に集中していることはこれまでにも何度か述べてきた。この「ユーラシアの帯」には西と東に分布の中心域があり、西の中心は「東地中海」、東の中心は「黄河長江」の流域であると考えていい。そこにはそれぞれ求心力と遠心力が働いている。 6世紀頃までの人類の文明はこの西と東の求心力に育まれた。そして7、8世紀には、西の中心からは北西(ヨーロッパ)へ、東の中心からは東(日本)へと、遠心力によって文明が拡大した。そしてこの帯の中間部は、北にモンゴルやチュルクなどの遊牧民の地が広がり、南にインドがあるが、その中間部の中心を設定するならそれはまちがいなくペルシャであり、そこには常に洋の東西をつなぐ双方向の力が働いていたのだ。 そして中世とは、この帯の中間部がイスラム化される時代であった。ユーラシアの帯の西寄りを制したイスラム帝国は、このペルシャの参加によって、単なるアラブ帝国ではない「普遍性」を獲得するのである。やがて中間部の覇権はチンギスハーンとチムールという英雄的遊牧民に継承されるのだが、本稿では逆に古代オリエントへと、時代をさかのぼっていきたい。