「ペルシャ」を敵にすべきではない――ホルムズ海峡の文化地政学
メソポタミア最後の雄・アケメネス朝とキュロス二世
そのペルシャが、僕らの記憶に最初に登場するのはアケメネス朝であり、ペルシャ戦争である。マラトンの戦いであり、サラミスの海戦である。しかし僕らはこれらをすべてギリシア側の記録によって知っているのだ。つまり「ヨーロッパの眼」によって、あたかもアメリカ先住民をインド人(インディアン)と呼んで西部劇を観ていたのと同じ感情をもって歴史を読んできたのである。近現代の日本人の心は、無意識のうちにヨーロッパ化されている。 アケメネス朝ペルシャは、人類最古の文明とされるメソポタミア文明、最後の雄である。ギリシャというエーゲ海の湾岸都市国家群(ペルシャ側の目には海賊程度に映っていたとしても不思議ではない)だけは征服できなかったが、エジプトを含むそれ以外の地中海世界に版図を広げたのだから、人類最初の世界帝国であったといっていい。 小国から出発してメソポタミアを統一し、大帝国への道を拓いたキュロス二世は、日本ではあまり知られていないが、西洋では、のちのアレクサンドロス、ハンニバル、カエサル…そしてナポレオンにまで続く軍事的天才の祖と位置づけられている。 このアケメネス朝ペルシャを最後に、古代オリエントの時代は幕を閉じ、やがてアレクサンドロスの東征によるヘレニズムの時代、地中海世界を統一するローマ帝国の時代がやってくるのだが、ここではさらにさかのぼって、メソポタミア文明というものの特質をエジプト文明と比較して考えてみたい。
「物語の文化」と「契約の文化」
ロンドンの大英博物館、入り口近くに陣取る「アッシュールバニパル王のライオン狩り」(アッシリア)のレリーフは、この博物館最大の見ものといってもいい。馬と戦車と兵士とライオンの躍動感が生々しく伝わってくる。「ナイルの賜物」(ヘロドトス『歴史』)といわれたエジプトが農耕文明であったとすれば、メソポタミアはどちらかといえば狩猟遊牧隊商などの文明であったようだ。 おおむね平和が続いたエジプトとは違って、メソポタミアは、シュメール、アッカド、ヒッタイト、アッシリア、ミタンニ、バビロニア、メディア、ペルシャなど、多くの民族と国家の興亡の歴史である。 しかしあの楔形文字は変化しながらも民族や国家を超えて受け継がれたようだ。エジプトの象形文字が「描く」という感覚であるのに対して、楔形文字は「刻む」という感覚で、有名なハムラビ法典のような石碑や、取引や徴税の数字など経済活動の記録としての粘土板が多く残る。 一方、エジプトの象形文字は神殿や王墓に彫り込まれ、あるいは描かれるのだが、その内容は、神々と王とその妃たちの関係、書記や職人などの仕事ぶり、農業、漁業、建築、機織りなどの記録である。つまり神話と生活が一体となっているのであり、戦争の記録はほとんどない。 こういったことから僕は、エジプト文明が、神話と生活の「物語の文化」であるのに対して、メソポタミア文明は、法律や取引の「契約の文化」であると考えた。この二つの文明は近接しながらもそれぞれ別の文字体系をもって数千年間続いたのであり、それ以後の人類の文明とは別の、独立した歴史であるように感じられる。そしてこの「物語の文化」と「契約の文化」という対比が、人類にとって普遍的な意味をもつように思われるのだが、その詳細については次の機会にゆずりたい。