ゲイであれ、ビアンであれ、ノンケであれ、誰もが集える桃源郷を
中学卒業を控えた頃、父の心配もあり、島根県の厳しい高校で寮生活を送ることを決める。新しい環境で生まれ変わりたいと思った岸田さんは、文武両道を心がけ、男らしく振舞った。徐々にそれらは彼の身になじんでいき、弱者と強者どちらとも釣り合いがもてる、クラスの中心的存在となった。 「認めることと、切り捨てることを同時にやっているような、そんな高校時代でした」と当時を振り返る。
高校卒業後、一度は大学に進学したものの、幼い頃からの映画好きがこうじて、大学を中退し映画の専門学校へ入った。夢かない、その後は『ツィゴイネルワイゼン』などでも有名な独立系映画会社・シネマプラセット(※注3)へと就職した。しかし、そんな矢先に会社が倒産してしまう。経営立て直しをはかり会社が手を入れたのはアダルトビデオ制作の仕事だった(その後、母体プラセットは、この事業から外れる事となる)。 当初は「映画が好きでこの世界に入ったのに、アダルトビデオを担当することがとても苦痛でした」と語る。しかしそんなアダルトビデオの世界が、岸田さんの視野を広げていくことになる。 当時、一人きりで自身の性に悩んでいた岸田さんにとって、種々様々な傷や影を抱えながらも生きているAV業界の人々は、ぶつけ所のない孤独を癒してくれた。子どもができて男に逃げられてAV業界に足を踏み入れる人、病気の親の面倒をみる為に面接にきた女の子など、AV全盛期となる90年代以前にアダルト業界に足を踏み入れる女性達には、それぞれの深刻な理由があった。 「人はみんなそれぞれに違うし、各々の痛みも抱えています。恥ずかしいと思われることもやっているし、受け止めていかないといけない現実はそれぞれにあります。彼女たちの姿や現場で関わる監督達の姿をみていて、そう感じることができました」
岸田さんの人生を振り返るとき、忘れてはならない人がいる。新宿のゲイバー・タックスノット(※注4)のマスター大塚隆史さんだ。20代後半の頃、偶然友人に連れられて訪れたバー。芸術家でもある大塚さんが創り上げる空間には、日頃のストレスから逃れて刹那的な出会いを求める人たちばかりではない、知的好奇心を刺激してくれる人達や事柄があふれていた。なによりも彼らは自分を認めて堂々としていた。 「二面性のある人生を続けるよりも、自分にしっかり向き合っていかないといけない。そう教えてくれたのが、タックスノット、そして大塚さんでしたね」 大塚さんとの出会いの中で少しずつ自分の性を肯定していった岸田さんは、徐々に友人や仕事関係者へもカミングアウトをしていく。36歳の頃、父宛にカミングアウトの手紙をしたためた。その昔、酔った勢いでカミングアウトしたときには笑って対応してくれた鷹揚な父ならば、案外笑って受け止めてくれるのではないかと思っていた。しかし手紙の返事はなかなか来なかった。三カ月後にようやく届いた父からの厚い手紙には、偶然手紙を目にした母が泣き崩れ、父は最愛の妻を悲しませた光明さんが許せなかったと記されていた。和解には、それからさらに6年の歳月が必要となる。