人材が豊かだった平安時代、唐に渡り現地で子供を授かった官人の数奇な運命
■ 羽栗吉麻呂と翼と翔 今から1308年前の霊亀2年(716)、翼の父・羽栗吉麻呂(よしまろ)は、当時の中国・唐の国に、留学生の従者として送られた。 そこで留学生(阿倍仲麻呂[あべのなかまろ])は、唐の科挙に合格して、高官に出世した。科挙は3年に1度しか行なわれず、合格率も1割未満だったというのに、外国人がこれに合格して高官に昇れるのは大変なことである。 ここから当時の中国政府が依怙贔屓を廃して、充分な公正性を重視していたことと、日本人貴族の猿真似ではない確かな教養を学習しようとしていた様子が見えてくる。 それはいいとして、中国で高級官吏の道に進んだ留学生は、その後、何度か帰国を望んだが、まだこの頃の航海技術は今ほど安全ではなかったため、ことごとく失敗し、ついに半世紀以上、日本に帰ることができずにいた。そして宝亀(ほうき)元年(770)そのまま中国で客死することになった。 さて、くだんの留学生が帰国しないで現地で出世コースを進もうとする中、従者である羽栗吉麻呂は、現地で中国人の女性と結婚し、養老3年(719)に初めての息子を授かることになった。 これが翼である。ついで次男の翔を授かった。 ■ 日本への帰国を果たした幸運な3人 もう察せられることと思うが、吉麻呂も現地で高級官吏になってしまった留学生以上に、帰国を切望していたことであろう。 これについて著者の倉本一宏氏は、歴史学者・青木和夫氏のお話として、吉麻呂は息子「翼」「翔」の名付けに「望郷の想い」を込めたのではないかという推測を紹介している。 それから時は少し過ぎ、天平6年(734)、吉麻呂は遣唐使と合流することが叶った。このとき、16歳の翼と翔を連れて、日本に帰国した。3船以上あった船のうち、1船だけが帰国に成功した。天運に恵まれていたといえよう。 吉麻呂も、息子たちに翼と翔の名乗りを与えて、天の加護を授けられたと頬を緩ませたことだろう。もしも間違って「兎」や「鹿」などと名付けていたら、虎になった李徴(りちょう)の空腹を満たす運命が待っていたかもしれない。 もっとも翔はその後、遣唐使に従って、再び生地である唐の土を踏むことになる。そしてそのまま唐の国で亡くなった。かれの人生もまた想像力を刺激する。 翔だけでなく、吉麻呂、翼の物語が気になる方は、ぜひ『平安貴族列伝』を手に取ってみよう。 ほかにも平安時代ならではと思わせる人間ドラマが全部で37人分、紹介されている。
乃至 政彦