「一緒に死のうか?」不登校で暴れる娘に母が包丁を突きつけ…「40年間無職の女性」が問題児となった意外なきっかけ
「学校へ行かせるのは親の義務であり責務」と、両親ともに頑なに信じきっていたので、当然ながら家での「居場所」も皆無であった。私は父が42歳のときに生まれた末っ子なので、その教育方針も“ザ・昭和”だったのである。 ● 教師に腕と足をもたれ 無理やり教室に「ポーン」 その頃の記憶が少し曖昧なのだが、最初の不登校のときは、さまざまな病院へ連れ回されていたような気がする。 そして、どこに行っても「異常なし」の診断が下ると、両親の不満は一気に私に向けられる。いくら怒られても一向に学校に行かない私は、必然的に両親と対立するようになっていた。姉と兄からも、学校関連のことでいじられることもあり、常に不機嫌な子どもであったように思う。 それから、なんとか学校に行けた日でも、教室に入ることができずにドアの近くでためらっていたら、ふたりの教師に腕と足をもたれ、無理やり教室のなかに放り込まれたこともあった。文字通り、「ポーン」と。 しかも、前のドアから入れられたので、クラスメートたちに丸見え……。まるで晒し者のようにされたわけである。あの刺さるような視線と嘲笑と、無知からくる汚い言葉は、思い出すだけで惨めな気持ちになる。 このように幼い頃、無垢であった人間でも、簡単に心に恨みと憎しみをもってしまうようにもなるのだ。
これから親になろうとする人と、教師を志す人には、子どもにそんな感情を教えないであげてほしい。 さて、曖昧な記憶といっても、言われてイヤだった言葉というのも、心に深く刺さっているものだ。たとえば、「世界には学校に行きたくても行けない子どもがたくさんいるのに、行かないなんて贅沢だ」とか……。 いや、そんなこと知ってるしわかってるし、そもそも話の土台ちがくない?私の感情とかどうでもいいんだ?などとモヤモヤ思ったものだが、当時はそれすら言える勇気も元気も持ち合わせていなかった。 あとからわかったことだが、このときは貧血気味にもなっていた。そのため、朝はなかなか起きられずに、ムスッとした蒼白い顔。夜は、爆発しそうな感情を圧し殺していた。 そんな“ユウウツ”な私は、さぞ不気味な子どもであっただろうと思う。 強烈に覚えていることがふたつある。 季節は半袖の頃だった。 その日も学校には行かず、怒った母と激しいバトルを繰り広げ、暴れ回っていた。感情にまかせて新聞紙を散々に引き裂いたり、手近にある物をなんでも母に向かって投げるなど……、必死の抵抗を試みていた。 そう、絶望し、疲弊しきっていた私は、手のつけられない問題児と化していたのだ。