「一緒に死のうか?」不登校で暴れる娘に母が包丁を突きつけ…「40年間無職の女性」が問題児となった意外なきっかけ
● 「死にたい?」と言って 包丁を頬に当ててきた母 今から思えばそのときの感情を言葉にできる。 心の辛さを誰にもわかってもらえないことから来る孤独感、いじめられていることを言えないもどかしさ、存在自体を祝福してもらえない惨めさ、など。 だが、幼かった私はそれらを感じていながらもどうしていいのかわからず、ただただ暴れることで伝えようとしていたのかもしれない。 ともかく、その日はいつも以上に暴れ、叫び、物を壊し、グチャグチャになった部屋のなかで、母も私も疲れきっていた。 突然、スッと立った母は、台所へ行き、包丁を手に戻ってきた。そして、そのまま私の頬に包丁を当てたのだ。 頬から首にかけてピタッピタッと当てられた金属の冷たさは、一生忘れないと思う。 その瞬間、恐ろしく頭が冷静に戻ったのを覚えている。 母に、「死にたい?一緒に死のうか?」と言われた。 声が出せない。 私は頭を小刻みに左右に振った。 「死にたい」とは思っていたが、それはより、「消えたい」に近いもので、ましてや「殺されたい」わけでは決してないのだ、とわかった瞬間でもあった。 ところで、変なことを言うようだが、このとき、場ちがいな可笑しみが腹の底からフツフツと湧き上がってきてもいた。「白ける」「引く」「ブラックジョーク」とでもいおうか。
今、振り返ると、母も母で、周囲に親しい友人もいない上、家では不登校児と向き合わなければならず、追い込まれていたのだろうと推察できる。 引っ越し後の千葉県での新たな環境にうまく適応できていなかったのは、母も私も同じだったのだ。 しかし、あまりに唐突すぎるそのときの行動が、幼い私には芝居がかって見えて仕方がなかった。「うわー、マジかよ……」が本音だった。 人間は窮地に追い込まれると、地が現れるというが、私の地というのは案外、冷たくて図太いのだなと、のちのち実感したものだ。 その後、母はプツンと糸が切れたように部屋の中央で眠りだした。 その息を何度か手のひらで確認したのを覚えている。 それから、その頃、何度も「産まなきゃよかった」と言われたことも忘れられない。子どもに言ってはいけない言葉ランキングがあるとすれば、上位に食い込むこと確実な“アレ”である。おかげで自己肯定感ゼロの問題児が仕上がったわけだが、たぶん言った本人はそのことすら忘れているだろう。
難波ふみ