「一緒に死のうか?」不登校で暴れる娘に母が包丁を突きつけ…「40年間無職の女性」が問題児となった意外なきっかけ
だが、当時の私は、口を閉じた貝のように閉じこもり、感情に蓋をしていた。学校での出来事を何も語ろうとしない私に、ある日、母が、「なんでも話していいんだよ」と助け船を出すほど、無口になっていたようだ。 その母の言葉にハッとしたのを覚えている。何かや誰かに負の感情を抱くのはいけないことだと勝手に思い込んでいたので、そう簡単になんでも話すようにはならなかった。だが、面白かったことなどはポツポツとしゃべるようにはなっていった。 ひきこもり無職の芽は、もうすでにその頃から芽生えていたかと思っているが、私の人生においてもうひとつ重要な、精神病の芽の始まりという問題がある。それは、父が水虫になったことからだと思われる。なんだ、そんなこと、と言われそうだが、これは真剣な話なのだ。 伝染する病気というものが、幼心に汚ならしく、恐ろしく感じられ、衛生観念がややいきすぎてしまった。臆病な性格で、細かいことが気になりすぎてしまったのもよくなかったと思う。 誰でも病気になどなりたくはない。 父と同じバスマットは使わないようにしよう。なるべく素足でいないようにしよう。足もよく洗うようにしよう。 「そうしようそうしよう」が、「しなくては」に少しずつ近づいていく足音がした。
● いつしか学校にも家にも 居場所がなくなっていった それから、なんとか少しずつ新しい生活に慣れていった私だったが、小学4年生の終わりあたりから不登校気味になっていた。もともと、神経質で小さなことにいちいち引っかかってはウジウジと悩むような子どもでもあったので、それもまた自然な成り行きであったと思われる。 いつの頃からか、「ノートをとるのにも完璧な文字で書かなくては」などと思い、書いては消しを繰り返した挙げ句、黒板を消される。そして、「完璧」も消える。 一事が万事……そんな調子で、少しずつ澱がたまっていくように、休みも増えていった。休みがちになると、当然のようにクラスメートにそれを指摘され、ますます学校への足が遠のいて、いわゆる「居場所」というものもどんどんなくなっていき、やがて定番の本格的な「いじめ」というやつを経験することになる。 少しずつ距離を置かれるところから始まり、徐々に陰口が囁かれ、ついにはあからさまに嫌悪の表情で悪口を言われ、馬鹿にされた。そして、お定まりの「死にたい」がやってくることとなる。だが、それの原因が「いじめ」によるものなのか、その頃からもうすでに私が狂い始めていたからなのか、は定かではない。 さらに書き添えておくと、我が家では不登校児は問答無用で“悪い子”扱いだった。