驕り、傲慢、自己欺瞞という厄介な憑きもの
「そう思っているのは、どうしてなの?」
上司と私は、ここ数年来、一緒に仕事をする機会の多かった間柄です。 上司は、問いかけるだけでなく、上司に私がどのように見えているか、上司がどのように考えているかも伝えてくれました。 「栗井さんの○○の能力が、他の人より劣っているとは思わない」 「以前のあなたは、もっと△△だったように見えるよ」 と、私の価値や存在を認めてくれる言葉もあれば、 「それは全然違うよ。なんとなく表面的なことに終始している気がすると思う」 というフィードバック。さらには、お叱りもありました。 「□□については何度もリクエストしているのに、栗井さんはやらない」 その1on1は、上司が話す時間もありつつも、私が今の自分をどう捉えているかについて、たくさん話す時間でした。 振り返ると、上司からは繰り返し、 「栗井さんがそう思っているのは、どうしてなの?」 と問いかけられていたような気がします。
都合のいい解釈に立てこもっている自分
上司に自分のことを話す中で、口にしながらも「本当にそうだろうか?」と思う瞬間が何度もありました。 「自分は環境への適応能力が高い」と上司に伝えながら、転職後の会社への適応が他人より少し早かった経験からそう思い込んでいるだけかもしれないことに気づきます。 「自分にはメンバーマネジメントの能力がある」と口にしながら、もしかしたら、かつてのチームメンバーの「栗井さんのチームで活動できて幸せでした」という言葉だけが拠りどころになっている可能性も発見します。 「コーチ・エィの次世代を担う若手の中心」という、かつてもらった言葉を今も大事にしている自分。 「ここしばらくは自身のパフォーマンスはイマイチだけど、それは自分のコンディションが整っていないから」と思っている自分。 「自分にはこういう能力がある」と言いながら、自分に都合のよい解釈の中に立てこもっている自分を次々に発見します。 話しているうちに頭に浮かんだ言葉があり、気づいたら、それを口にしていました。 「自分はいつの間にか『お局』になってしまっているのかもしれない」 私にとって「お局」は、男女問わず「老害」を象徴する言葉です。変化しない人、アップデートしない人、今持っているものにしがみついている人、そんなイメージがありました。 「自分は会社に新しい風を吹きこむ存在だ」と思っていた自分の口から「お局」という言葉が出てきたことに、自分でも驚きました。しかし同時に、今の自分に妙にマッチした表現だと、その言葉を受け入れました。