「俺は間違った法律には従わない!」「お前が法律に従わないと世の中が乱れる!」…世の中の「ルール」をめぐる「大激論」
クローン人間はNG? 私の命、売れますか? あなたは飼い犬より自由? 価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。 【写真】「俺は間違った法律には従わない!」…世の中のルールをめぐる「大激論」 法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。 ※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
法律と道徳は無関係──法実証主義
こういう例をみていると、法律は正義とか道徳とは無関係、それどころかそれらに反した法律さえあるじゃないかと言いたくなってくる。 実際、確かに法律は道徳とまったく無関係な独自のルールですよ、と論ずる法学者、法哲学者は昔から多くいる。そのような学者たちの考え方を「法実証主義」という。第1章で紹介したケルゼンもそのひとりである。 この立場の人々は、法律とは合憲的な手続きを踏んで成立した実定法のみを指すべきであり、それだけが社会の全員が参照するルールであるべきとする。 なぜそのように言うのか。それは(学者によってニュアンスの違いはあるが)、法律は社会のメンバーが行動する時に共通に当てにできるひとつのルールブックであるべきだという考え(実定法一元論という)に基づく。 たとえば、野球やサッカーをする人々は皆共通のルールを頭に入れてプレーしている。もし各選手がルールブックに載っていない自分独自のルールを持ち出してプレーしたら、ゲームは大混乱して成り立たなくなるだろう。 これと同じで、相手と契約書を交わしたけれど、この契約は自分の信念に反するから履行するのをやめよう、などという人が出てきたら相手は大迷惑だし社会が混乱する。 また、裁判において裁判官が、法典に言明されていない自分独自の理想や正義観、神のお告げなどを法源として判決を出したら、法典に基づいて訴訟に臨んだ人々は非常に困ってしまう。 法律はすべての人々に「こういうことをしたら法律上こういう結果になる」という予想とか「相手とこういう契約をしたから自分にはこういう効果が返ってくる」という期待を保障する機能をもたなければならないから、合憲的に制定された法律だけをルールとして施行すべきだ、というのである。 もちろん、合憲的な手続きを踏んでできた法律でも、内容的におかしなものは十分あり得る。でも、内容がおかしいからといって各人が自分の判断で踏みにじったり勝手に変えてはいけないし、また、しかるべき手続きによって改廃されるまでは、その法律をルールとして認めねばならない。このように考えるのが法実証主義なのである。