「人が押す鉄道」はなぜ生まれ、なぜ消えていったのか 豆相人車鉄道の歴史
※この記事は、森川天喜氏の著書『かながわ鉄道廃線紀行』(神奈川新聞社、2024年)に、編集を加えて転載したものです(無断転載禁止)。なお、文中の内容・肩書などは全て出版当時のものです。 【画像】「離れのやど 星ヶ山」に展示されている人車鉄道の再現車両(筆者撮影) 1896年に小田原から熱海までの全線約25キロが開通した豆相(ずそう)人車鉄道。明治の文豪の作品にも描かれたこの鉄道は、レール上の箱状の客車を車夫が押すという、極めて原始的な乗り物だった。 坂道の難所に差し掛かると、3等車の客は車夫とともに客車を押すのを手伝わされたという。後に蒸気機関車牽引(けんいん)の軽便鉄道に生まれ変わるが、関東大震災で壊滅的な被害を受けると復旧されることなく、歴史の波のかなたへと消え去った。
熱海駅前の小さな蒸気機関車
熱海駅前のロータリー広場の一角、アーケード商店街の入口近くに、小さな蒸気機関車が保存・展示されている。機関車の前に設置された説明板には、「車両の長さ3・36m、高さ2・14m、幅1・39m、重さ3・6t、時速9・7km」と書かれている。 日本の蒸気機関車の王様・D51(デゴイチ)の全長が19・73メートルであるのと比較すれば、その小ささがよく分かる。
レール上の客車を「車夫が押す」乗り物
この「熱海軽便鉄道7機関車」は、明治の終わりから大正にかけて、熱海と小田原を結んでいた軽便鉄道で実際に使われていたものだ。説明板には「熱海・小田原の所要時間 軽便鉄道=160分 東海道本線=25分 新幹線=10分」という興味深い数字も書かれている。 軽便鉄道の旅は、現代の旅と比較すればずいぶんとのんびりとしたものだったのが分かる。だが、軽便鉄道が登場する以前、熱海-小田原間には「人車鉄道」と呼ばれる、さらに原始的な鉄道が走っていた。 これは文字通り、レール上の箱状の客車を車夫が押すという乗り物であった。 熱海軽便鉄道の前身である、この豆相人車鉄道の開業にも、先行開業していた小田原馬車鉄道(箱根登山鉄道軌道線の前身)と同様、東海道線のルート選定(現・御殿場線ルートでの建設)が関係している。 江戸時代に東海道五十三次の江戸から9番目の宿場町として栄えた小田原や、古くから温泉地として知られていた箱根・熱海では、鉄道ルートから外れたことによる街の衰退、陸の孤島化が危惧され、鉄道誘引の機運が高まった。 1888年に、国府津-小田原-湯本間を結ぶ小田原馬車鉄道が一足先に開業すると、熱海では「軽便鉄道王」として知られた雨宮敬次郎が中心となって人車鉄道の建設が進められた。 当時、熱海温泉は名湯として知られていたものの、30軒ほどの旅館が軒を連ねるにすぎず、採算を考慮した結果、人車が採用されたのだという。