「常に巨人ファースト」「巨人が中心でほかの球団を支えてやっている」...球界のドン「ナベツネ」逝く、その「往年の功罪」
「憲法違反」の主張を盾に
2024年も多くの傑物が鬼籍に入ったが、「球界のドン」として知られた読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄さんもその一人。オーナーも務めた巨人だけでなく、制度改革などプロ野球界にも大きな影響を与えた渡辺さんの功罪と素顔を、当時の巨人担当記者や関係者が回顧する。 【一覧】プロ野球「最も愛された監督ランキング30」最下位は、まさかの… 「俺は勝てるんだったら、監督は誰でもいいんだ」 渡辺さんがそう放言したのは、巨人を二期、7シーズン率いた藤田元司さんが第二次政権で優勝した際の祝勝会でのことだったという。現場にいたスポーツ紙担当記者は、その言葉に渡辺さんが巨人に求めるものの本質が詰まっていたと振り返る。 「ナベツネさんは野球の技術や戦術のことはわかっていなかったし、興味も持っていなかった。とにかく巨人が勝てばいい、巨人は常に勝たないといけないという人。だから、そのために巨人に都合のいい制度を導入していった。 93年の大学・社会人に各球団2人まで行きたい球団を逆指名できる権利を与える『逆指名制度』も、それまでのドラフト制度を『職業選択の自由を侵す憲法違反』と選手に寄り添うようなことを口にして批判し、導入をゴリ押し。人気、資金力からアマチュアの選手はみんな巨人に入りたがっていると高をくくり、獲りたい有望選手を集められると考えていた」 当時は地上波放送で当たり前に巨人戦が中継されていたころ。巨人の人気にあやかっていた他の球団はそれを受け入れるしかなかったものの、内心では困惑を隠せずにいたという。
逆指名元年にまさかの苦戦
セ球団の元スカウトが振り返る。 「ナベツネさんは口ではきれいごとを言っているけど、逆指名になればお金の積み合いになるのは必然で、巨人が有利になるのは明白でしたからね。同制度初年度となった93年のドラフトでも巨人は有望選手への動きが遅れて、目玉選手から色よい返事がもらえなかった。ドラフトが近づいても2位は決まったものの1位の逆指名選手がいなかった。 ところが4日前になって東北福祉大の三野勝大が巨人を正式に逆指名した。三野は広島、近鉄、中日がアタックしていて、私が知る限り三野は広島に決まっていた。資金力の乏しい広島は最初から目玉選手には行かない方針で誠意を尽くして交渉していたのに、ほかの選手にフラれた巨人が横やりを入れてひっくり返した。広島のスカウトは恨み節をコボしていましたよ。 あれは金で釣ったようなもの。三野は大学でも日ハムを逆指名した関根裕之の2番手投手で、プロでも活躍できなかったように、そこまで力があったとは思わない。巨人としては制度の言い出しっぺで逆指名選手が2人そろわないと格好がつかないと考えたところもあったはず」 同制度が12球団にもたらしたのは、自分たちで自分たちの首を絞めていくことだった。 「契約に必要なお金がどんどん吊り上がっていった。入団したら競争に勝たないといけないのに『ポジションを空けて待っている』なんて無責任な口説き文句を使うスカウトもいた。高騰を防ぐために契約金の『最高標準額』を1億円(翌年に1億円+出来高5000万円に改定)に定めたが、のちに大幅に上回っているケースが複数球団であったことが明るみに出たように抑止力にはならなかった。 しかも巨人は高額契約を隠すためにセ・リーグに虚偽の統一契約書まで提出していたんだ。巨人ファンだってルール違反だと思った江川卓の『空白の一日』のシナリオを書いたのもナベツネさんとされているし、野球協約にも隅々まで目を通して、いつも自分たちに利する抜け道を探っていたんだろう」(前出・元スカウト) そうした攻防が繰り返された挙句に、裏金問題が発覚することになる。