没落の恍惚と哀しみが胸に迫る ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の「桜の園」
90歳を過ぎた僕の母とその姉(伯母)は小金井の地主の姉妹だった。 僕は彼女らの人生を「桜の園」の登場人物に重ねていた。 母は英語教師で、伯母は池坊の師匠だった。 小金井が都内屈指の桜の名所(いうなれば「桜の園」)であり、その地主の娘である彼女らは昭和20年8月の敗戦時、この土地にアメリカの田舎者がやってきたら耐えられないと話し合っていたという。 彼女らの父は娘たちが結婚すれば土地を与え、地方出身の婿とともに住まわせた(だから今の僕があるわけだが)。つまり彼女らは「何もしなかった」し、今も「何もしない」。彼女らの父が所有した土地は国の方針で切り刻まれてしまったが、たいして不平を漏らすこともなく、変わらずにそこに住み続けた。 チェーホフの創作信条は「あるがままに人生を描く」だったという。栄枯盛衰が世の必定としたら、「桜の園」はその姿を普遍化した傑作なのだろう。 会場の世田谷パブリックシアターを出て、週末の夕暮れの中、下北沢まで歩いた。 駅周辺は相変わらずの雑踏だったが、満面の笑みで目立つのはインバウンドらしき海外からの若者ばかり。道の隅を歩く日本人の姿がどこか没落貴族のようでもあった。 (文・延江 浩) ※AERAオンライン限定記事
延江浩