日本海軍「屈指の異形戦艦」とは まるで違法建築!? どうしてここまでゴテゴテに…?
旧式ながら圧倒的な米艦隊に挑む
大正時代は比較的平穏に過ごした「扶桑」でしたが、太平洋戦争開戦時には既に旧式化。真珠湾攻撃やミッドウェー海戦には後詰めとして参加したものの、交戦機会はありませんでした。 ミッドウェー海戦で主力空母4隻を失った日本海軍は、「扶桑」を空母化する計画を打ち立てます。結果的に中止となるものの、一時は工期短縮案として、「伊勢」や「日向」のような航空戦艦化も検討されました。 既に海戦の主役は航空機に移り、他の戦艦より速力が遅く旧式の「扶桑」は扱いに困る存在でした。ミッドウェー海戦後は練習艦となり、輸送支援などの後方任務についています。 「扶桑」最後の戦いとなったのが、1944(昭和19)年10月18日に発動された「捷一号作戦」です。日本海軍はレイテ島へのアメリカ軍の上陸を阻止すべく、オトリの機動部隊(小沢艦隊)を日本本土から出撃させて敵の戦力を引き付け、その隙に主力部隊(栗田艦隊)と別動隊(西村艦隊、志摩艦隊)をレイテ湾に突入させ、艦砲射撃で上陸部隊を撃滅しようとしました。 「扶桑」は別動隊の西村艦隊の一員として、姉妹艦「山城」や重巡洋艦「最上」、駆逐艦「山雲」「満潮」「朝雲」「時雨」とともに、わずか7隻でスリガオ海峡方面からレイテ島を目指すことになります。 作戦を成功させるためには、主力部隊(栗田艦隊)と同時にレイテ湾へ突入する必要がありましたが、主力部隊はシブヤン海で米軍機の激しい攻撃を受けて進撃が遅延。そのため別動隊が単独で突入する形となり、40隻以上の圧倒的な艦隊で待ち構えるアメリカ軍の猛攻を受けてしまいます。 そして「扶桑」は砲撃戦を行うことなく、アメリカ海軍の駆逐艦から雷撃を受けて艦隊から落伍し、10月25日未明に沈没しました。 建造当初から問題が多く、活躍の機会も無かった「扶桑」ですが、建造で得られた教訓は2番艦の「山城」や伊勢型戦艦へ反映されていきます。試行錯誤の試みは、後に日本が世界水準の主力艦を建造するための貴重な経験となりました。
乗りものニュース編集部