【大学野球】早大・小宮山悟監督にとって“父”と言える存在 徳武定之氏の思いを背負って「秋日本一」へ
早大第50代主将
東京六大学リーグ戦。早大戦のたび、自校とは逆サイドの内野席中段に座るOBがいた。「ベンチの采配がよく見えるんですよ」。シートに深く腰掛けていたのは、徳武定之氏だった。視線の先には小宮山悟監督が指揮していた。イニング中に、話しかけてはいけない。 【選手データ】徳武定祐 プロフィール・通算成績 一球一球の攻防を、鋭い視点でチェック。イニングが終わったタイミングであいさつ。そこで、試合のポイントを聞くのである。勉強になった。だが、この秋はその姿が一度も見られなかった。闘病中だった。 早大は11月12日、明大との優勝決定戦を4対0で下し、2季連続48度目のリーグ制覇を決めた。春秋連覇は9年ぶり。優勝決定戦は2010年秋(早大10対5慶大)以来、早大と明大が対戦するのは、1948年以来、76年ぶりだった(早大5対1明大)。 母校が天皇杯を手にしたのを見届けた2日後(11月14日)、徳武氏は悪性リンパ腫のため、東京都の病院で死去。86歳だった。 1938年生まれ。早実では3年夏の甲子園出場。醍醐猛夫氏(元毎日ほか)と同級生で、2学年下には王貞治氏(ソフトバンク会長)がいた。早大では4年時に第50代主将を務め、秋には「伝説の名勝負」として語り継がれる1960年の早慶6連戦を戦った。 早大は2勝1敗で慶大から勝ち点奪取。9勝4敗、勝ち点4の同率で、慶大との優勝決定戦へと持ち込んだ。このプレーオフで2試合引き分け(延長11回、日没コールド)の後、早大は再々試合で逆転優勝。当時の「四番・三塁」が徳武氏だった。 早大卒業後はプロ3球団(国鉄・サンケイ、中日)で計10年プレー(打率.259、91本塁打、396打点)した。国鉄入団後、1年目から821試合連続試合出場(7年目の開幕3試合目で途切れる)の記録を持つ。 引退後は中日やロッテのコーチ、ヘッドコーチ、監督代行らを歴任。プロのユニフォームを脱いだ後は99年、早大で同級生(捕手)だった野村徹監督からの打撃コーチ打診を受けた。以来、應武篤良監督、岡村猛監督の下、14年まで後輩たちを指導してきた。