三宅唱監督『夜明けのすべて』インタビュー。「恋愛」ではない人同士のつながり、ふたりを見守る人々
「この作品は社会の居場所の話でもあるので、人間関係図を大きく書いた」
この人たちの一挙手一投足が気になる。画面のなかで生きているということ自体に関心が持て、気になって続きをずっと見ていたくなる。それはほかのキャラクターにも通じる。 「シナリオをつくっていくときに、これは藤沢さんと山添くんが中心の話なわけですけど、ふたりがどういう社会に生きてるか? ということをまず確認したんですね。この作品は社会の居場所の話でもあるので、人間関係図を大きく書いてみました。小説で登場する全員、例えば医者の存在なども同じサイズで等しく書いていって、あとは小説に直接出てこなくても『学校にはこういう友達がいそう』とか『この場所に行ったならこういう人に出会ってそう』とかを考えたりもして。小説にも、結局映画にも出てこない人もその図の中にはいて。 『こういう人がいるとその社会のある側面がより見える手がかりになる』、というのがありますよね。それで、かれらよりもっと若い世代を描くべきだろうと思ったから、(原作にはないけど)いてもおかしくないだろうということで、中学生の二人組が登場しました。 そういったオリジナルの、たまたま小説では浮上してこないだけでそこにいたんじゃないかと思う存在をつくりながら、真ん中にいる二人のことがよくわかっていった手応えもあります。これは映画化した人間のだいぶ勝手な言い分だと思うんですけど」 この映画は、仕事の現場が活き活きと見えるところも魅力的だった。映画オリジナルの中学生2人のキャラクターが出てきて、社員たちにインタビューするという構造が入ったことで、会社の様子がより観客側に伝わりやすくなった。外部の目として、観客側と映画の接点としても機能している。 「藤沢さんには『自分をどう見られたいか/見られたくないか』っていう葛藤が、山添くんには居場所探しが、主人公それぞれがどういう人間関係や社会のなかでそうなるのかが見えてくると思ったんですね。そうすると『何が問題になってるのか?』っていう問いが浮かび上がってきますよね。 山添くんは、拠りどころにしていた『ヨット部で活躍していて、立派な会社に行った』っていうところから、剥がされてしまった。ある種のエリートだった人間が、パニック障害でうまく働けなくなった。これまでの彼のセルフイメージを支えたものは、無自覚にというか特権的に持っていた男性性に支えられているし、彼の属していた社会階層はそれが強いから、周囲に理解してもらえそうにもない。そこから降りるのはつらいですよね。そこでもがこうとしてる、っていう像は小説に内在していたものです。僕自身も、『悩む』と言うとちょっと微妙な言い方なんですけど、彼の葛藤はわかりますよね。『男らしさ』を丁寧に問い直すような書籍などにも、色々とヒントをもらっていました」 山添くんの自宅にはエアロバイクがある。その小道具は、前半では「自分は何者かになれる」という山添くん像の象徴になっているとわたしには思えた。そしてその小道具は、あるとき登場する自転車という小道具と呼応して、後半からはその意味合いが変わってくる。 あるモチーフのイメージが映画の流れ、物語の中で変わっていくことで、こんなふうにまとめてしまうのは抵抗があるが、男性中心的な働き方から下りる象徴になっている。そういう物語は、メジャーな邦画ではじつはまだあまりない表現だ。