狙われた中日同僚「ヤジすごかったから」 大乱闘で飛び蹴り“集中砲火”…3冠王も標的に
1988年、札幌遠征からそのままナゴヤ球場で練習した星野中日
星野仙一監督率いる中日といえば、闘争心むきだしの野球が有名だった。キャッチフレーズは「ハードプレー・ハード」。指揮官は「グラウンドは戦場、ユニホームは戦闘服」と口にした。乱闘も多かったが、中日の主力選手だった宇野勝氏(野球評論家)は、そんなシーンでほとんど目立っていない。「俺は周りにいただけって感じだったからね。言葉だけ参加していたかな」。中日が優勝した1988年も大乱闘劇があったが、その時も冷静に動いていた。 【映像】ベンチもブルペンも空っぽ 両軍入り乱れてもみくちゃ…勃発した“大乱闘” 星野中日は宇野氏がプロ12年目の1988年にセ・リーグを制覇した。4月終了時点では首位・広島から8ゲーム差の最下位だったが、そこから巻き返して6月終了時点では首位・巨人に1ゲーム差、2位・広島に0.5ゲーム差の3位に浮上した。だが、7月に入って大洋3連戦(1日~3日、平塚、横浜)と巨人3連戦(5日~7日、旭川、札幌円山)に6連敗。延長11回5-6でサヨナラ負けした7日は試合が長引き、予定の航空機に乗れず札幌に1日延泊となった。 「次の日に移動して、そのまま家に帰ろうと思ったら、バスがあったんだよね。『えっ、バスってどこに行くの』なんて思った覚えがある。それでナゴヤ球場に行って練習だったんだよね」。中日首脳陣は前夜に札幌の宿舎で打開策を協議。基本に戻ろうということで、ベースランニングなど走ることからやり直しとなった。「次のゲームもギリギリ勝ったって感じだった。で、そこから急に調子がよくなったんだよね」。 7月9日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)に10-9で何とか勝った中日はそこから6連勝。ひとつ負けて、また6連勝と勢いに乗って首位に立ち、突っ走った。8月下旬にはドジャース留学で急成長の山本昌広投手が帰国して活躍するなど、チームに弾みもついた。「マサ(山本昌)は(前の年まで)よくバッティングピッチャーで(1軍に)来ててさ、そのままなっちゃうのかと思ったら、アメリカで大化けだもんね。ガタイもデカくなって帰ってきたよね」。