元中日の大豊泰昭氏を追悼 ── 無骨な努力の人「トイレも1本足で」
引退後は、中日のアジア地区担当スカウトとして台湾の陳偉殷の獲得をサポートするなど日台の交流に尽力した。市内には中華料理店「大豊飯店」も開店していた。 雑誌の編集長をしていたときに、一度、その店を訪れたことがある。電話をすると「久しぶりだな。いくらでも食べてね!」と言うので店へ行くとバイキング方式。「いくらでも食べてねって、食べ放題やないか」。そう突っ込むと「だからいくらでも食べればいいよ」と、いたずらっぽく笑った。 前妻が急死。09年からは白血病に襲われ、闘病生活に入ったという話を聞き、岐阜に移転した店へ顔でも見に行こうと思いながらついに行けなかった。昨年、妹さんの骨髄を移植、その結果次第で回復に向かう可能性があると聞いて安心したが、術後の経過が思わしくなかったのだろう。闘病の末、別人のように痩せこけてしまった姿をテレビで見て驚いたが、努力の人、大豊氏なら奇跡を起こすと信じていた。彼を勇気づけていた、タカラジェンヌとなる娘さん達と、再婚された奥さんに、きっと最後の最後まで、自虐的なジョークを飛ばしながら、現役時代のように決してあきめず努力を続けながら希望を捨てなかったと思う。 最後に。 1994年10月8日。130試合目に勝った方がペナントレースを制するという伝説の中日対巨人の10・8決戦でのこと。当時、ナゴヤ球場の記者席は、ネット裏のすぐの場所にあって、8回無死一塁で、ネクストサークルに入る4番の大豊と目があった。私は、記者の立場も忘れてガラスの窓を開けて怒鳴った。 「大豊!打て!」。それが大豊氏に聞こえたかどうかわからない。マウンドには、ストッパー起用された桑田真澄、大豊は、タイミングを外されライトフライだった。 さらば、ドラゴンズの「55」番。心からご冥福をお祈りしたい。 (文責・本郷陽一/論スポ、アスリートジャーナル)