軍事施設だった甲子園、貴重写真で明らかになった「空白期」の姿 「野球の聖地」の別の顔、アメリカ人写真家が神戸市文書館に寄贈
▽JPNR4103 終戦後の1945年10月、日本軍に代わり今度は米軍が「甲子園のあるじ」となった。 当時、球場2階の廊下には折りたたみベッドが並べられ宿舎として使われていた。貴賓室は司令官が使用し、食堂は酒場に変わった。甲子園には米兵が2千人ほどもいたという。 米軍はグラウンドや観客席下にあったプールや体育館を利用して体育学校も作った。日本各地に駐留する米兵の体育指導をする指導員を養成する学校で、野球やボクシング、競泳などを行っていたという。 米軍が日本国内で接収した不動産には管理用番号があった。国立公文書館が運営するインターネットサイト「アジア歴史資料センター」には日米で接収物件についてやりとりした資料が残る。「調達要求書及契約書」という資料によると、甲子園の番号は「JPNR4103」だった。 甲子園の歴史を研究する武庫川女子大の丸山健夫名誉教授は当時の甲子園一帯について「日本人は簡単に近づけなかった」と語る。付近にあった兵庫県鳴尾村(現西宮市)の村史にも「(甲子園キャンプでは)施設の周囲が鉄条網で囲まれ、銃を持った兵士が警護する」との記録が残る。
そのためこの時代の甲子園を写した写真は日本にほとんどなく、甲子園を運営する阪神電鉄も所蔵していない。 ▽「空白期」の写真 そんないわば「甲子園の空白期」と言える写真が今年4月、米国から神戸市文書館に寄贈された。接収初期に撮られたとみられる9枚の未公開写真。甲子園に隣接する甲子園歴史館(兵庫県西宮市)の担当者も「見たことがない写真で貴重。野球だけにとどまらない近代史の史料」と驚いた。 米兵撮影とみられる写真には、今と同じツタに覆われた球場が写る。だが外壁には「KOSHIEN STADIUM」と英語の看板が掛かっている。1934年から1983年まで使われた今よりも背の低いバックスクリーンも写る。 寄贈したのは米国の写真家で、知人から譲り受けたものという。撮影者ははっきりしないが、バックスクリーンに「S(ストライク)B(ボール)O(アウト)」とのアルファベット表記があることなどから、丸山名誉教授は1947年3月ごろの撮影と推定している。