軍事施設だった甲子園、貴重写真で明らかになった「空白期」の姿 「野球の聖地」の別の顔、アメリカ人写真家が神戸市文書館に寄贈
8月1日に開場100年を迎えた甲子園球場(兵庫県西宮市)には、軍事施設だった歴史がある。太平洋戦争中の1944年から終戦までは日本軍が、1945年10月から1954年までは米軍が利用していた。軍需工場や兵舎などになっており、米軍接収中は、「JPNR4103」という“別名”も付けられていた。 【写真】戦争孤児、令和に実在? 「偽名だよ。親が付けてくれた名前なんて分からないもん」 「無戸籍のまま80年」 ホームレスに近寄ると、鋭いまなざしで…
甲子園は高校野球やプロ野球阪神タイガースの本拠地として、今では「野球の聖地」というイメージが浸透している。しかし、今年新たに米国経由で見つかった写真や、当時の球場関係者の著書などをひもとくと、今とは全く違う甲子園の顔が浮かび上がってくる。(共同通信=西村曜) ▽「スポーツの聖地」 1924年開場の甲子園は「国内最古の本格的な野球場」とされる。約1・5キロ南にあった鳴尾球場で開かれていた全国中等学校優勝野球大会(現在の「夏の甲子園」、正式名称は全国高等学校野球選手権大会)の人気が高まり、観客がグラウンドにあふれ出る事態も発生。より収容人数の大きな球場が求められていた。 そうした中、5万人超を収容できる巨大球場の建設を決めたのは阪神電気鉄道の三崎省三元専務(1867~1929年)だった。 明治時代に米国留学の経験があった三崎氏は当時、欧米人との体格差を痛感し、スポーツを通じて日本人の体格を向上させようと考えていた。現在甲子園がある一帯に陸上競技場や競泳用プール、テニスコートなどを整備し、スポーツの聖地となった。
▽焼夷弾で「一面火の海」 阪神電鉄の社史によると、甲子園に軍隊がやって来たのは1944年春。日本軍の輸送部隊の隊員数十人が常駐した。 観客席の下には軍需工場が入り、三塁側アルプス席の下にあった温水プールは潜水艦ソナーを研究する施設として使用された。グラウンドも、食料不足を補うための芋畑と軍用トラック置き場となった。中等学校優勝野球大会は1941年から中断。グラウンドの芝生は、木炭を使っていた軍用トラックからこぼれた炭で枯れ、わだちができた。 広島に原爆が落とされたのと同じ1945年8月6日には空襲にも見舞われた。グラウンドには数千個の焼夷弾が突き刺さり、一塁側アルプス席周辺が大規模に燃えた。後に球場長を務めた川口永吉氏は著書「甲子園とともに」の中で、「球場全体が一面火の海となった。ものすごい炎が飛び出しスタンドは穴だらけ、火は延々三日間も燃え続け手もつけられぬ惨状となった」と書いている。