【Q&A】開戦から79年。「太平洋戦争」とは?
1941年12月8日(日本時間)、日本軍が米・ハワイの真珠湾などを奇襲し、太平洋戦争が開戦しました。3年8か月にもおよび、日本人だけで310万人の犠牲が出た戦争の開戦から今年で79年。どのような戦争だったのか、改めて振り返ってみましょう。
Q:どう開戦したの?
1941年12月8日、日本軍は英領マレー半島と米・ハワイの真珠湾を奇襲しました。これをきっかけとして米国、英国、オランダ、オーストラリアなどの「連合国」と日本との間で戦われた戦争が「太平洋戦争」です。
Q:「リメンバー・パールハーバー」って何?
日本から米国に対してなされた宣戦布告が、攻撃の後だったとして、米国では「だまし討ちだった」と受け止められることがあります。 その経緯から、国民を鼓舞するキャッチフレーズとして「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」が使われたのです。
Q:先制攻撃した後の戦況は?
日本軍は開戦から半年で東南アジアのほぼ全域と太平洋の広い地域を勢力下におきました。 しかし、ミッドウェー海戦(42年6月)やガダルカナルの戦い(42年8月~43年2月)などで敗れ、劣勢になっていきます。 連合軍は、徐々に日本に近い拠点を奪取していき、それらの地域から日本本土に向けて爆撃機を飛ばすようになります。
Q:日本本土の被害は?
連合軍による空爆は、44年秋ごろから本格化。当初は軍需工場や基地が主な攻撃対象でしたが、次第に焼夷弾で街を焼き払う無差別爆撃も始まりました。 45年3月10日の東京大空襲では一晩で10万人が犠牲に。そのほかにも、大阪、名古屋、仙台、横浜をはじめ、北海道から沖縄まで多くの都市が空襲被害を受けました。
Q:地上戦は日本であったの?
沖縄と硫黄島、千島・占守島(しむしゅとう)でありました。 特に、3~6月にかけて繰り広げられた沖縄戦では住民も巻き添えとなり、当時の県民の4人に1人が犠牲になりました。司令官が自決した6月23日は組織的戦闘が終結した日とされ、沖縄県では「慰霊の日」として毎年式典が開かれています。
Q:どう終戦を迎えたの?
8月6日に広島、9日には長崎に原爆が投下されました。昭和天皇が降伏を決断し、日本は14日に米英中首脳による降伏勧告(ポツダム宣言)を受諾。翌15日に「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び……」のフレーズで知られる昭和天皇の玉音放送(終戦の詔書)がラジオで流され、戦争の終わりが国民に知らされました。 3年8か月におよんだ太平洋戦争では日本人だけで310万人、アジア太平洋地域では総計で1000万人とも2000万人とも言われる人が犠牲になりました。