じつは多い、定年後の人生で「大失敗する人」の意外な共通点
注文の多い小料理店:「ゆとりある老後」を阻害する「目的と手段の転倒」
老後資金をめぐる悲劇もある。老後が不安だといって、四十歳五十歳を超えてから慣れない株投資やFX投資を始める人がいる。 そうした人は、貯金をつぎ込むだけで飽き足らず、退職金を担保にして借り入れに手を付けたり、ようやくローンを払い終わったばかりの自宅を抵当に入れてしまうことさえある。もちろん短期的には積極的にリスクをとるこうした投資活動の成果が出ることもある。しかしパソコン画面上の金融資産の含み益は、利益を確定させて現金を手にするまでは単なるまやかし/まぼろしに過ぎない。 慣れない投資が長期にわたって上手くいくほど世の中は甘くない。 そうして、老後のために投資した資金が、予想外の株や為替の値動きによって生じた追加保証金(いわゆる追証)の連続で泡と消える。これでもまだ投資が成功する確率も(わずかながら)存在するという意味では良い方だ。 ときには、老後の資金が心配だといって、ブラジルだとかカンボジアだとかの不動産や金融資産を仲介する怪しげな会社に投資してしまう人もいる。あるいは外国の宝くじをみんなで買うといった、胡散臭い話に乗ってしまう人がいる。こうした人たちは実際には詐欺に引っかかっているだけのことも多い。その場合、投資したお金が増える確率は0%でお金が奪われる確率は100%である。 老後資金は溶けていく。こうした人が老後を不安がるのは当然だろう。なぜなら自分自身が不安を現実にすべく全力を出しているからだ。 といって今度はお金を一切使わないという人もいる。投資なんかもってのほか、消費も最小限、ひたすらお金を貯めるというタイプの人だ。こうした人は悲劇は避けられるかもしれない。しかし喜劇を演じてしまっている。 なぜなら、お金は使ってはじめて、製品やサービスと交換してはじめて、意味があるからだ。何にもお金を使わずに節約生活を続けて、ある日ぽっくり逝ってしまったらそれこそ一番の無駄遣いである。 老後をめぐる悲喜劇の数々に共通する特徴の一つは、「目的と手段の不整合」「目的と手段の転倒」だ。これはまさに経営問題といえる。目的と手段の位置づけを誤って、自分に配慮して欲しくて自慢話をするが、そのせいでますます配慮を得られないような状況に陥る人はあまりに多い。 今度は図書館における小競り合いを見てみよう。図書館の新聞コーナーは、カブトムシに対するクヌギの樹液のごとく/真夜中の電柱のごとく、高齢者および私を惹きつける。日本中の図書館で観察されていることなのだが、新聞コーナーでは人がひしめき、うごめいて、新聞を奪い合っている。 ときどき「おいっ、新聞に折り目をつけるなよっ」などと怒号が飛ぶ。日本の高度経済成長を支えた、図書館に響き渡るほどの日米貿易摩擦的怒号だ。 Z世代(2024年現在青春期にある若年層の世代)なんぞとは根性の入り具合/腰の捻り方から違う。この怒号の前に現代の若者など一目散に逃げだしてしまうほどだ。こうして、あっという間にこの「高度経済成長貢献怒鳴り人」は、図書館職員から要チェック対象としてマークされることになる。 こうした小競り合いは自分の存在感を相手に認めさせたいがために引き起こされる。居場所を作るための闘いなのである。しかし居場所を確保するために揉め事のきっかけを作るようでは、結局は居場所を失う。 同じ過ちは場末のスナックでも見られる。 スナックは図書館の新聞コーナーに負けず劣らず高齢者の方々の集会場だ。そして夜も更けてくると、酒も進んで誰もが大声で話しだす。そんなとき突然に「おい、俺の歌を聞けよっ」と怒鳴る人が出てくる。 深夜の店内が一瞬で、しん、とする。その高度経済成長貢献怒鳴り人は、不満げにマイクを握る。しかし他の客にしてみれば、無理やり聞かされる歌など仮に上手くても素直には聞けない。 そのため曲が終わる前に他の客はぞろぞろと帰りだす。こうしてまた一つ怒鳴り人の出入り禁止場所リストが更新される。 老後は家庭にも居場所がなくなるという人も多い。 こうした人の多くは、家庭において企業のダメ管理職のようにふるまっている。 家庭内ダメ管理職は配偶者や子の行動に対して命令はするが責任は取らない。明確な指針を示さずに、これがダメだ、あれがダメだと終わったことを責め続ける。当然ながら家族からは疎まれる。しかも現役のときほどの体力と気力はないから家族との力関係は徐々に逆転していく。 その結果として家庭に居場所がなくなってしまうのである。