じつは多い、定年後の人生で「大失敗する人」の意外な共通点
D+1坂の殺人事件:相互尊敬の欠如が老後に悲劇をもたらす
さきほどの「家は居心地が悪いし、散歩代わりに会社にくる」というよく聞く話は、多くの場合は謙遜のつもりで発される言葉だろう(謙遜でないのは私くらいだろう)。 本当は「俺たち/私たちがこの会社を支えてきたんだ。昔はメールもない時代で、営業は足で稼いだ。若手は俺たち/私たち頑張りズム世代を敬え」と主張したいのかもしれない。そしてその主張には一理ある。それどころか、私含め若手の側も会社を支えてきた大御所たちへの一定の敬意は持ち合わせている。 もちろん家居場所無し健康通勤人が定年後も働き続ける理由には「年金だけでは生活費が心もとない」という不安もあるだろうが「会社のことは今でも自分たちが一番わかっている」という自負もあるはずだ。 しかし自らを家居場所無し健康通勤人だとことさら強調したところで、若手の多くはそこに自虐と謙遜と自信が入り混じった心の機微を読み取ってはくれないし、それどころか若手の中にわずかに残っていた敬老の心さえも消し去ってしまう。 このくらいのエピソードであれば、老後という心境にある方にとっても、まだまだ自分は現役だという意識の方にとっても、喜劇として楽しめる範囲であろう。 実際のところ幸せな老後を過ごせる人は少ない。晩節を汚す人はあまりに多い。ときにはそれは悲劇をもたらす。若手のうちから嫌われ者の私もまた、老後に訪れかねない悲劇に今から恐れおののいている(顔つきと体形は仏みたいだと慕われているのだが)。 まだ老後は先のことだという人も次のような事例を心しておくべきだろう。 たとえば、介護施設の中で介護士に対して威張り散らす人がいる。まるで昭和の管理職の仕事風景を介護施設で再現しているかのようだ。そうした人は、昭和パワハラ的に、介護士をささいなことで叱責して人格否定にまで及ぶ。お世辞にも高給とはいえない待遇で身を粉にして日々働いていて精神的にも限界に近い状態にある人に、昭和の上司部下の関係の延長線上で暴言を吐くわけである。 すると、この暴言がきっかけで介護士が「切れて」しまう。 そうして介護士から高齢者へと殴る蹴るの暴力に発展する。しかも毎日のように人を抱えたり持ち上げたりしている筋骨隆々の介護士と、高度経済成長期に部下を抱えたり株価を持ち上げたりしてきた頑張りマンとはいえ全盛期にくらべて筋肉も骨も衰えた高齢者の対決だ。当然ながらこうした暴力で命を落とす人さえ出てくる。 これに類似したニュースは毎年毎年量産されている。 同じような事件が多すぎて、同じ事件の続報を一年中やっているのだろうかと思うほどだ。もちろん、介護従事者が特別怒りの感情を抑えられないわけでもなければ(正確な統計はないが、むしろ平均よりも優しい人が介護職を選ぶ場合が多いのではないだろうか)、暴言を吐いた高齢者が死に値するわけでもない。 ここでは介護士と高齢者のどちらも非難の対象ではない。 しかし確実にいえることは、老後をめぐる悲喜劇は人生経営の失敗によって生まれているということだ。これによって老後が台無しになるどころか、恐怖と痛みの中で撲殺されるほどの悲劇が我が身に降りかかってくることさえあったわけである。