言い伝えは本当だった!? 隅田川最古「千住大橋」の下に浮かぶブイの謎 長い歴史が物語る「化け物」「戦国武将」の伝説
架橋工事を指揮した男は、「神様、仏様と並ぶ」偉人
工事の総指揮は、関東代官頭で土木に精通する伊奈忠次が執りました。 彼は後に、江戸を洪水から守るため、東京湾に注いでいた利根川の流路を現在の千葉県銚子に変更する大土木工事「利根川東遷事業」も手掛けた人物として有名で、「神様、仏様、伊奈様」と讃えられました。 橋が架けられた一帯は元々低湿地で、しかも当時、荒川は大川に通じ、水量も多く大きく蛇行して流れも複雑、しかも頻繁に氾濫する「暴れ川」だったため、工事は難航を極めました。 ただし家康の威信も懸かっているため、橋は洪水で簡単に流されることは許されず、頑丈に造られました。 約1年の工期で完成し「大橋」と命名されますが、後に下流に「両国橋」(1659年)が渡されると、江戸市中に近かったせいもあり、「大橋」の看板は“両国”に譲り、「千住大橋」と改名しています。 それでも大橋は、その後繰り返される大水で10回前後流出しますが、そのつど木橋が架け替えられ、前述した明治時代に造られた橋が最後の木橋となりました。 地元・千住では昔から「政宗の高野槇橋杭が腐らずに川底に残っている」と言い伝えられていました。 いわゆる「政宗伝説」で、真偽を確かめようと2003(平成15)年に、東京都建設局河川部が鉄橋の下の川底を調査したところ、実際に3本の橋杭の基部が残っていることが確認されたのです。 現在、橋杭の場所が分かるように3個のブイが川面に設置されています。近くまで行ってのぞけるように、鉄橋の下には「千住小橋」と名付けた遊歩道も整備されています。 千住大橋にはこのほかにも、「化け物」にまつわる二つの話が、数百年にわたり地元で伝承されています。 一つは「大亀」です。初代の架橋の際に橋杭を川底に打ち込もうとしたとき、硬い岩盤に当たりそれ以上入りませんでした。 昔から千住周辺の大川には大亀が住んでいるという言い伝えがあるため、架橋予定の場所がちょうど大亀の寝床で、「きっと橋杭が堅い甲羅にぶつかっているに違いない」と地元民は考えたようです。結局、固い川底を避けながら橋杭を建てた結果、初代大橋の径間はちぐはぐになってしまったということです。 もう一つは「大緋鯉(ひごい、赤い鯉)」の伝説です。これも大昔から千住付近の大川には、川の主でもある大緋鯉が生息し、体格は小ぶりの鯨ほどで、川をゆったりと泳いでいたようです。 ところが初代大橋を架けると、径間が狭かったため大緋鯉は通り抜けるのに苦労し、しばしば橋杭に巨体をぶつけ、このままでは橋が落ちる危険性もありました。そこで、左岸に最も近い径間を大きく広げて大緋鯉が楽に通れるようにした、とのことです。 ※1月6日17時、誤字を修正しました。
深川孝行