仲間同士でつくった農業共同体が、身近な人から幸せにする「味噌づくり」とは
日本人の私たちにとって最も馴染み深い調味料のひとつ、味噌はもともとは家庭で手づくりするのが当たり前でした。島根県浜田市で味噌づくりを営む「やさか共同農業」は、そんな味噌の本質を長きにわたり見つめ続け、“手づくり”の魅力を伝え続けてきました。そんな「やさか共同農業」の歴史は、50年前、都心部から村に移り住んだ若者たちの、「人間の幸せとはなにか」の問いからはじまりました。
はじまりは50年前。幸せな生き方を求め都会からやってきた若者たち
遡ること50年前。島根県浜田市にある人口約1100人の小さな町、弥栄町(旧弥栄村)に都心部から数人の若者たちがやってきた。彼らは、人間の幸せとは何なのかをテーマに豊かな暮らしの在り方を模索し、ともに同じ時間を過ごし、それぞれの考えを受けいれあう共同体をつくった。自然のままの原野を借り、木を伐採し土を耕し、簡易なプレハブを建て、生きるための必要最低限のものだけを集めた暮らしをはじめた。 「地域の人に野菜の育て方を教わり、冬は出稼ぎに行くこともあったと聞いています。当然ながら始めのうちは上手くいかず、地域の人の助けも非常に大きかったと。そうした試行錯誤の末、年間を通じて気温の低い弥栄の土地にあう味噌づくりをはじめ、『やさかみそ』が誕生した、というのが原点です。当時の『地域とともに暮らしていく』という思いは、今も引き継がれています」(やさか共同農業 代表 佐藤大輔さん、以下同)
先代のメンバーは、地域に根差し、豊かな暮らしを実現するために味噌づくりをしながら、豚、牛、鶏などの畜産農業も並行。その後、生産流通部門は1989年に「(有)やさか共同農場」として法人化し農業と味噌づくり、2つの柱を中心に事業を拡大させていった。
「現在は畜産の事業は畳んでおり、有機農業と味噌づくりだけを続けている状況ですが、当時は『地域の豊かさ=自分たちの豊かさ』という思いから、農村の過疎化を止めるために地域おこしに奮闘していたのだと思います。1962年~1963年の冬に北陸から西の日本海側を中心に起こった『昭和38年1月豪雪』を機に、農村から人の流出が起こり、一気に過疎化が加速しましたから」 「やさか共同農業」の味噌づくりの根底にあるのは、地域とともに豊かでありたい、という思い。そして、「自然の流れに従い、自然に生かしてもらうことにより、本当の意味でおいしい食べ物を作ることができる」という考えから、自然を最大限に活かす有機農業へのこだわりも外さない。