篠山は「自分が一番になる」と言っていた。大学時代からの親友・沢渡朔が語る篠山紀信の生き方
クラスで写真に対して真面目にやってる1番2番だった
日大芸術学部が「日芸」といわれ、映像や写真を学ぶ人の憧れの存在であっても、大きな大学のいち学部。写真学科に入ったとて、みなが同じ情熱を持っているとも限らない。沢渡さんは言う。 「篠山は学生時代から全然大人でしたね。1年生のときからプロの商業写真、コマーシャルの写真を撮ると言っていて。60年前の話ですよ、コマーシャルの写真家になるとまっしぐら。途中でこれはダメだと思って別の方に展開していくんだけど。 ぼくらはまだ高校出たばかりでガキだから、篠山とぼくは写真が好きで、写真に対して真面目にやってるのはクラスで1番2番だったと思いますね。2年生の時に展覧会やったり。 クラスは50人で4つくらいあったんですが、みんな写真が好きな人が集まるのかと思ったらそうでもなくて(笑)。そういう意味で僕と篠山は話がすごくあったし、よく一緒に撮影にも行きましたよ。彼の実家のお寺の本堂をスタジオ代わりにしてよく撮影しました。彼の持っている暗室でよく一緒にプリントしたりしていましたね」 高校生を出て大学生になったばかりの頃から、ともに切磋琢磨し、刺激を与えあう関係だったのだ。
「40円のトリスハイボールを飲んで泣いた」
ライトパブリシティといえば、1951年、東京・銀座で誕生した日本初の広告制作専門会社。クリエイティブな世界での憧れの存在だった。篠山さんはそこに1961年、大学3年生にして入社し、しかもフリーの活動も制限しないという特別待遇だったという。しかし入ったばかりの篠山さんは、実は周囲の印象とは異なり、苦労したとかつてのインタビューで語っている。 「撮り直しっとか言われて。そういうことが一次が万事。ライティングなんかが違って、それを覚えるってのは……。 銀座ですからね。スナックとか安いサントリーのバーとかいって40円のトリスのハイボール飲んでね、泣いたね。悔しくて。この野郎と思って。でも会社じゃ泣けないからね……。どうにかやろうと。そこで技術を覚えたって感じですね」 沢渡さんは大学卒業後、横尾忠則さんらを輩出した日本デザインセンターに入社。篠山さんが「悔しくて泣いた」という時代も共にすごした。 「彼は自分のこういう風な写真家になる、自分が一番になるという話をしてました。僕も篠山も銀座に会社があったから、よくうちに泊まって一緒に会社に行ったんだけど、そういう話をしていましたよ。うまくいかなくて泣いたりしている頃の話です。いじめられたりというのもあったみたいだけど、強いし実行力があるから。行動力というか」(沢渡さん)