SNSの「相互評価ゲーム」に閉じ込められた人類に残された「たった一つの道」
SNS上での承認を求め、タイムラインに流れる「空気」を読み、不確かな情報に踊らされて対立や分断を深めていくーー。私たちはもう、SNS上の「相互承認ゲーム」から逃れられないのでしょうか。 【写真】SNSの「相互評価ゲーム」に閉じ込められた人類に残された「一つの道」 評論家の宇野常寛氏が、混迷を深める情報社会の問題点を分析し、「プラットフォーム資本主義と人間の関係」を問い直すところから「新しい社会像」を考えます。 ※本記事は、12月11日発売の宇野常寛『庭の話』から抜粋・編集したものです。
「動員の革命」と複数化
現代の資本主義と情報技術の不幸な結婚としてのプラットフォームを内破すること──この主題を掲げたときにまず私たちが思い浮かべるのが、書を捨てて街に出ること、つまり実空間とそこに結びついた共同体に回帰することだ。 しかし、事態はそう単純なものではない。なぜならば今日のサイバースペースを支配する相互評価のゲームは、実空間にも侵略を開始している、いや、すでに侵略は完遂されているからだ。 かつて「動員の革命」という言葉が囁かれたように、2010年代は情報技術を用いて人びとをサイバースペース経由で実空間に動員していった時代だった。 アラブの春や香港の雨傘運動、日本の反原発デモといった社会運動、CDの販売からフェスの動員への音楽産業の収益構造の移行、「インスタ映え」を用いた商店や観光地の集客まで、FacebookやX(Twitter)などSNSのプラットフォームを経由した動員が政治からサブカルチャーまでこの時期に幅広く定着していった。 それは参加者一人ひとりが発信することで、タイムライン上に潮流を形成し、それを目にした他のプレイヤーの参加をうながすボトムアップの動員だ。 人間は(それがどれほど洗練された希少なものであったとしても)紙や画面の上にある他人の物語に感情移入するよりも、(それがどれほど稚拙で凡庸なものであったとしても)プラットフォーム上に自分の物語を吐き出すほうを好む。 20世紀後半の中産階級たちは休日に自宅でカウチポテトのスタイルを取りながらオリンピックやサッカーのワールドカップなどの競技スポーツを見ていたが、現代のクリエイティブ・クラスは、みずから屋外に繰り出してランニングやヨガなどのライフスタイルスポーツをおこなうことを好む。 つい数十年前まで、この本質が覆い隠されていたのは、単に技術上の問題にすぎない。 20世紀とは、放送と映像というふたつの技術の発展と組みあわせを用いて他人の物語に感情移入させることで、かつてない大規模な社会の形成に成功した時代だった。この間に人類は紙や画面、とくに後者のなかの他人の物語に感情移入することで、自己と社会との接続を確認していた。 しかし、21世紀の今日において、人類は情報技術に支援され、その本来の習性を取り戻しつつある。自分の物語を語ること、その発信の内容が他の誰かに承認されること……。 たとえほとんどの人間にできることが、すでに存在している支配的な意見のどれかに対して周囲の顔色をうかがいながら追従することだけだったとしても、その快楽は他人の物語に感情移入するそれを大きく上回る。 この習性を応用してプラットフォーマーは「自分の物語」を求めた人びとの欲望を刺激し、彼らを動員していった。人びとは自分の物語を求めて、ハッシュタグのついた実空間に動員されていった。 もちろん、人間はそこで何ものにも出会うことはない。あらかじめ、ハッシュタグによって自覚された予定調和の事物にしか出会えない。街を歩いても、目当てのハッシュタグのついたもの以外目に入らなくなる。名所旧跡の前でセルフィーを撮る観光客が何ものにも出会えていないように。 代わりに、彼らは相互評価のゲームに閉じこめられる。ハッシュタグとは、すでに多くの人びとが話題にしている事物を可視化する装置だ。彼らが触れているのは、事物ではなく人気のハッシュタグ=他のプレイヤーたちの発信の生んだタイムラインの潮流でしかないのだ。こうして実空間はサイバースペースに従属し、この閉じた相互評価のネットワークの内部に回収されたのだ。 プラットフォームの支配する今日のサイバースペースはもちろん、比喩的に述べれば「ハッシュタグに汚染された」実空間ももはやプラットフォームの一部でしかないのだ。