米朝会談とG7のあと…。政権益と国益、トランプ大統領と安倍首相の位置づけ
国益と政権益のギャップがポピュリズムを生む
国民は、なんらかの理念を求めながらもやはり国益を考える。 しかし本当に向かうべき理念とは何か、本当に長期的な国益とは何か、それを知ることは簡単ではない。 そこに、さまざまな政策の提示とその良し悪しに対する議論が必要であり、報道機関と知識人が重要な役割を果たし、最終的には国民の意思に沿って政策が実現されるというのが民主主義というものだ。 理念と国益と政権益が一致していることが望ましいが、現実にはかなりのギャップがあり、報道者、学者、批評家の意義は、そのギャップを埋めることである。しかし昨今、彼らも人気商売、むしろそのギャップを広げる傾向さえある。政治の大衆化を通りこした、情緒的なマスコミ化(インターネットを含め)が起きる。 政権は人気取りに走る。ポピュリズムという言葉は、現在は右寄りの民族的排他主義に使われる傾向にあるが、本来はこのギャップからくる過剰な人気取り政策の意味であり、左翼陣営にも多く存在するものだ。 トランプ大統領も金正恩委員長も、それぞれ国益を得たことを主張して政権益につなげようとするのだが、十分に国益を守れない場合、その溝を埋めるための「演出」が必要となる。それが今回のショーアップにつながっている。
日本の位置づけは微妙
さてG7サミットと米朝首脳会談のあとの、日本の位置づけである。 日本はこれまで、どちらかといえばアメリカに歩調を合わせるかたちでサミットに参加してきた。唯一東洋の国であるが経済力を期待されてという特殊性もあった。 今回、先進国の代表であったはずのアメリカが単独で保護主義に走り、トランプ大統領はむしろ東洋の新興国の強権リーダーたちと握手している。この状況における日本の選択は微妙である。理念としても国益としてもメルケル首相の主張を支持するべきではあるが、東アジアの危機における同盟国として、アメリカの立場にも理解を示し、トランプのメンツも保ちたいギリギリの立場なのだ。 また、米朝首脳会談の成果を全面的に評価することも難しい。 安倍首相は一応の評価を示し、日朝間の協議に入るということだが、国民の大部分は、非核化の具体性が示されず「完全で検証可能かつ不可逆的な」が抜け落ちたことに落胆している。加えて高額の経済負担を迫られるということになると、果たして国民は納得するであろうか。 つまり端的にいえば日本は、東アジアにおける米中のパワーバランスの狭間に立たされるとともに、先進国間におけるアメリカとその他の国の狭間にも立たされるという状況だ。戦後日本の長期政権は常にアメリカの随行者の立場であったが、今回は、これまでにもまして舵取りが難しいように思える。