黒柳徹子「テレビ黎明期の生放送の経験が、ユニセフの活動にも活かされた。誰もが自由で、戦争のない世界を」
国内で800万部、海外では2500万部のベストセラーとなり、多くの人々に愛される物語。その続篇を上梓した黒柳徹子さんは長年、ユニセフの親善大使として世界中の戦争や飢餓、病気などで苦しむ子どもたちを支える活動を続けています。徹子さんが変わらず抱く思いとは(構成=篠藤ゆり) 【写真】伯父にもらったパンダのぬいぐるみを抱きかかえる黒柳徹子さん * * * * * * * ◆生放送は毎日が訓練で これはさんざんあちこちで話してきたことですが、私がテレビ女優を始めたころ、ドラマは生放送でした。今それを言うと、役者の方々はみなさん「そんな~、イヤです!」「ぜったいにできな~い」と言います。 生放送ですから、ハプニングやトラブルはしょっちゅう。台詞を忘れちゃった役者がいると、とっさに「あなた、こうおっしゃりたいのよね」なんて、その人の台詞を全部言ってあげたり(笑)。 私は本来、ぼんやりしている人間だったと思いますけど、ぼんやり立っていても生放送はそのまま続くわけです。誰かの指示を待つのではなく、とにかく何かをして、その場を乗り切らなくてはいけない。 本当に大変でしたし、毎日毎日、訓練させられているみたいなものですから。やっぱり、鍛えられたと思います。
1978年から89年まで司会をつとめた歌番組『ザ・ベストテン』も生放送でしたから、ハプニングは多かったですね。今だったら「放送事故」とか言われて、炎上してしまうようなこともありました。 相方の久米宏さんとは、放送中にわりと忌憚なく政治の話題にも触れました。私が「久米さん、TBSのアナウンサーだからちょっとまずいんじゃない?私が言うわよ」と言うと、「大丈夫です」と言っていたけど、さっさと退社してフリーになって『ベストテン』をやっていました。 私たち、ロッキード事件の話なんかもしましたけど、今だったら歌番組で政治ネタは難しいでしょうね。当時はテレビの自由度が、今より高かったなと思います。 テレビ黎明期から生放送で鍛えられたことは、ユニセフ(国連児童基金)の活動をするようになっても活かされました。戦争や天災、飢餓に苦しむ地域へ子どもたちを訪ねていくので、近くに地雷原があるような場所もありましたし、トラブルに巻き込まれて「あぁ、もうダメかもわからない。ここで死ぬのかな」と思ったこともあります。 でもそんなとき、「あれだけ私は本番を乗り越えてきたんだし」と思い出すと、「大丈夫、なんとかなる」と前向きになれました。