雪国の暮らしを伝える江戸後期のベストセラー。その誕生苦難を描く(レビュー)
かつて大学時代の恩師に「君はこれを読むといい」と渡されたのは、木内昇氏の短編集『ある男』だった。明治の黎明、地方に暮らし、己が運命を生きた主人公たち。当時、牛の乳を搾り羊を追って生活していた我が身の臓腑に、熱い鉄の塊をねじ込まれた心地がした。 『雪夢往来』は、江戸後期、越後塩沢で商家を営む鈴木牧之(儀三治)が当地の風俗や景色を描いた『北越雪譜』を世に出すまでの物語だ。 当時、米や縮などは江戸で流通していたものの、豪雪と共に生きる暮らしがどのようなものかは知られていなかった。文筆に親しんだ儀三治は、己が暮らす地のことを書き記し、江戸で板行されて多くの人に読まれたいと願う。 しかし蔦屋重三郎が興した耕書堂をはじめとする江戸の板元にとって、出版は慈善事業ではなく商売である。売れ筋の作品を量産する戯作者ならともかく、地方の名もなき文筆家には見向きもしない。儀三治は伝手を頼って著名な戯作者に校合という形で協力を依頼する。だが、快諾した相手が亡くなったり、戯作者同士の不和に巻き込まれたりと、願いはなかなか叶わない。 まず、江戸から遠い、というごく単純な現実が儀三治には大きな障壁になる。ネットが普及した今でこそ、クリエイターは地方在住でも活躍が可能だ。だが、私の親世代の地方在住作家は、東京の編集者と電話打合わせを繰り返せば、通話料金で原稿料が消えたとも聞く。 ましてや飛脚や知人の往来に手紙を託した時代では、意思を伝えあうにも時間がかかるのみならず、直接言葉を交わせば生じるはずのない誤解や疑念さえ招いただろう。 登場人物達の創作への熱意に圧倒される。儀三治、山東京伝、そして曲亭馬琴。彼らの背景はそれぞれに異なり、また重い。表現者であり続けることは、時に地獄の道行きに等しい。苦しく辛く、けれど筆を止めることはできない。こんな苦しみ多き宿痾に対し、三者とも救いも答えも容易には得られない。時に連れ合いや家族に助けられ、またその家族に心乱され、そのたびに儀三治の雪話は板行の道を狂わされて宙に浮く。 「家族というものは、なにごとかを極める上では足手まといにしかならんな」 狷介で、されど書く話の面白さゆえに性根を正す機会を逸した馬琴の心が哀れだ。その惑いが諦念に至らずに掬い上げられていく顛末に、降りたての雪の冷たさと温もりを感じた。 [レビュアー]河﨑秋子(作家) 1979年北海道別海町生まれ。2012年「東陬遺事」で第46回北海道新聞文学賞(創作・評論部門)受賞。2014年『颶風の王』で三浦綾子文学賞、同作で2015年度JRA賞馬事文化賞、2019年『肉弾』で第21回大藪春彦賞、2020年『土に贖う』で第39回新田次郎文学賞を受賞。他書に『鳩護』『絞め殺しの樹』(直木賞候補作)『鯨の岬』『清浄島』などがある。 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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