「スキャンダルこそ人間の本質」 ――文春と新潮のOBが語る、週刊誌ジャーナリズムの真実
■でかいスズメバチにミツバチ100匹で向かう感覚
──人間の業を描くとなると、人間の醜い部分まで掘り出す必要がありそうです。雑誌ジャーナリズムの意味はどこにあると思いますか。 森「簡単に言えば、雑誌の華はスキャンダルなんです。だけど、文学もスキャンダルなんですよ。最初は文芸のスキャンダルを文芸誌の『新潮』で書いて受けていた。それを見た齋藤さんが、週刊新潮でやればもっと幅広く受けるんじゃないかと考えた」 柳澤「戦前の月刊『文藝春秋』も、作家の直木三十五が文壇のスキャンダルを書いたことが躍進のエンジンになった。だから、直木賞は直木三十五がすごい作品を書いたからというより、文壇スキャンダルの記事で雑誌にすごく貢献してくれた友人を顕彰する賞としてつくられたようです」 森「スキャンダルにこそ人間の本質が潜んでいると。それは当たっている気がしますね」 柳澤「最近の週刊文春の躍進を牽引した新谷君は、植木等や立川談志の言葉を借りて『分かっちゃいるけど、やめられない。人間の業を肯定する』と言います。例えば、AKB48には男女交際禁止というルールがある。それでも付き合ってしまう子がいる。それが人間ってものじゃないのと。そんな人間らしいものを捉えるのが週刊誌で、きれいごとばかりじゃ息苦しいだろう、と」
――「新潮」の齋藤十一が言う人間への本質的な興味は、「文春」の新谷さんのそれと通底しますね。 柳澤「同じだと思います。だから、週刊文春は週刊新潮=齋藤十一をずっと追いかけてきた」 森「ただ、齋藤さんの罪は自分の後継者を育てなかったことだと思います。その後のことを考えずに好きなことをされてきたのではないかと」 柳澤「仕事のやり方はどうでしょう。いまは多少変わってきているはずですけど、文春の社員はだいたい3年で部署を異動します。週刊文春だと、人を大量投入してスクープを狙う。でかいスズメバチをミツバチが100匹ぐらいで取り囲んでわーっといくイメージですね」 森「新潮は伝統的にスクープをあまり求めない、そこに拘泥しない風潮があり、それは現在まで変わらないと思います。スクープよりも事件の裏側にはどろどろした人間の欲望や心情、動機がある。だから、そこを書かないと駄目だというのが齋藤さんの教えだったように感じます」 柳澤「殺人事件なら、『これだったら殺すしかないよな』みたいな背景ですね。編集部の空気はどうですか。私は本の中で、文春は明るくて新潮は暗いと書きましたが、ふざけるなとかは思わなかったですか」 森「いやいや、そのとおりです(笑)。新潮は社屋が暗く、窓もちっちゃい。異動もほとんどないので、20年以上編集部に在籍している人もいます。その分、人脈やスキルも積み上がり、プロフェッショナルに徹する感じでした」 柳澤「新潮社が文芸出版社なら、文藝春秋は雑誌社です。文春はいつもお祭り騒ぎをやっていて、記事で国会が動いたりしたことに喜びを感じて、それがエネルギーに変わっている」 森「社風ですよね。ただし雑誌をやっている以上、特ダネへのこだわりは新潮にもあると思います。誰も褒めてくれないけど、自分でにんまりしてるっていう感じじゃないですかね」