医師「もう助からない」事故で全身の40%を火傷し、余命1日を宣告された青年 奇跡の生還と思いについて聞いた
回復までの長い道のり
重度のやけどに敗血症、そして多臓器不全。 ときに心肺停止になり気を失ったこと、皮膚から細菌を落とすために新しくできた皮膚をすり落とす処置をされたことなど、命をつなぐための治療と経過のすべてを濱安さんは認識していたといいます。 「床ずれ防止のために、2時間おきに体位の変換をしてもらい、毎日目薬を差してもらっていた」 「痛みのショックでもしかしたら意識を取り戻すかもしれないと人工呼吸器を麻酔なしで挿管された」 濱安さんの意識のなかでは身の回りで起きている出来事すべてがわかっている状態なので、周りの人たちの認識で「意識が戻った!!」という喜びと驚きの瞬間も、濱安さんにとっては「目があいた」くらいの感覚だったそうです。 みんなが大喜びするなか「全部わかって聞こえていました」「懸命に助けていただいてありがとうございます」「五体満足に生んでくれたのにこんなことになってしまってごめんね」とたくさんの思いがあふれていましたが、口が動かず、声を発することができない濱安さんにとっては、とてもつらくもどかしく感じる状況だったといいます。
「息子は助かる」両親の思い
濱安さんの母親は、事故当時から治療期間の様子を記録にまとめています。 記録の中には、爆発のあった日に濱安さんの容態について連絡を受けた両親の心境や、亡くなってしまった親族に「どうか、息子を連れて行かないで」と願う苦しく辛い思いも書き残されています。 戻らない意識と、日によって変化する容態。不安な状況のなかでも両親は決してあきらめませんでした。 なかでも印象に残るのは、「命さえ助かってくれたらそれでいい」「高信、がんばっているね」「すごいよ!その調子!」といつでも前向きな言葉で締めくくられている記録が多いことです。 息子の生きる力を信じて、ずっと話しかけ続けた両親にとって、濱安さんの回復への喜びは計り知れないものがあったことでしょう。
つらいリハビリと現在
目を開けることができたものの、実際には指1本も動かせないところからのスタートでした。このとき、かろうじて動くのは瞼と眼球だったので、そこから意思疎通を図っていくことが最初の難関でした。 「あ・い・う・え・お」のボードを使って、相手が一文字ずつ濱安さんの視線の先を指さします。その文字であっていたら“瞬き1回”違っていたら“瞬き2回”とやりとりのルールを決めて伝え合いました。 「面会にきてくれてありがとう」「聞こえていたよ」「ごめんね」と短いひとことを伝えるのに40分から1時間かかっていたそうです。 食事をずっと摂っていなかった濱安さんの喉は焼けてしまっていたため、ひとかけらの氷を口のなかで溶かして飲み込むというリハビリも少しずつ始まりました。 医師からは「よくてもこの先、生涯車いす生活です」と伝えられていた濱安さんですが「もう一度両親に立って歩けるところを見せたい」その思い一心で歩くためのリハビリを続けます。 歩行訓練では補助具をつけて歩くものの、皮膚移植の部分や両足かかとの床ずれが歩くたびに破れてしまい血だらけに。それでも決して諦めなかったといいます。 濱安さんの身体には指の麻痺で左手が握れない、ジャンプができない、正座ができない、走れないと現在も障がいが多く残っています。しかし「生き延びることができたら夢のような人生を送る!」と決意していた濱安さんは現在、イタリア、シンガポール、韓国と様々な国を旅してまわり、その様子を自身のSNSに投稿しています。