アルーシャ協定から20年 ルワンダ紛争を振り返る
8月4日は、アフリカ中部の国、ルワンダで起こった紛争に終止符を打つはずだった「アルーシャ協定」が1993年に結ばれてから20年の節目になります。しかし、その後に同国内で大虐殺が起こりました。これが、世に言う「ルワンダ虐殺」です。現在のルワンダは、国民融和に向けて様々な対策が打たれ、アフリカでも治安の良い国になっていますが、悲劇の前に、昔の関係に戻れなかったのかと悔やまれます。何が原因だったのか、振り返ってみましょう。
この悲劇の原因は、ルワンダが抱える民族問題でした。ルワンダの民族は、フツ族84%、ツチ族15%、トゥワ族1%で構成されており、フツ族とツチ族は、長年にわたり対立を続けていました。アルーシャ協定とは、この二つの民族が、1993年8月4日に結んだ和平協定です。 ■ルワンダ民族問題の原因:ベルギー 民族問題の原因を作ったのは、1918~62年までルワンダを支配していたベルギーでした。 ベルギーは、支配当時、統治しやすいよう、国民の多数派フツ族を冷遇し、少数派のツチ族を優遇した。ここにフツ族・ツチ族の対立の芽を作ってしまったのです。 1950年半ばからアフリカにおいて、第二次世界大戦で国力の低下したヨーロッパからの独立機運が高まってくると、ベルギーは政策を転換しました。強く独立を求めるツチ族ではなく、フツ族を優遇するようになったのです。これによりフツ族から大統領が誕生。立場が逆転しました。 ■ルワンダ内戦(1990年~1993年) これまでのうっぷんを晴らさんとばかりに、フツ族はツチ族を弾圧します。これは1962年の独立後も続けられ、多くのツチ族が難民となり、隣国ウガンダへ追いやられることになりました。その難民ツチ族が、ウガンダで反政府ゲリラ組織「ルワンダ愛国戦線(RPF)」を結成。ツチ族政府のウガンダがこれを支援し、1990年内戦が勃発したのです。 ■破られた和平、ルワンダ虐殺へ この内戦による悲しい民族対立は、1993年のアルーシャ協定により、和平合意して終わるはずでした。しかし、翌年4月に、フツ族大統領が暗殺され、再度内戦が勃発。この時、報復としてフツ族が、ツチ族を虐殺するという悲劇が起きたのです。しかも、ツチ族のみならず、虐殺に反対する穏健派のフツ族をも手にかけた。犠牲者は、わずか3ヶ月でおよそ100万人とも言われています。 ■回避できなかったのか? 結果的にはRPFが勝利し、ツチ族が実権を握って内戦は終了しました。しかし今度は多くのフツ族難民も発生してしまいました。 このように、ルワンダの問題は民族対立にあったのです。しかし、元々フツ族・ツチ族は宗教・言語・文化に差異はなく、植民地支配を受けるまではうまく共存していました。それが外国によって優劣を押し付けられ、憎しみ合うようになり、悲劇を生んでしまったのです。 (文責・齋藤聡輝)