分子構造式のような設計に身震い! 勝家の本陣・玄蕃尾城 賤ヶ岳の戦いの城 ①
「身震いするほど秀逸な縄張(なわばり=設計)の城は?」と尋ねられたら、この玄蕃尾(げんばお)城は外せない。登城口までは車で林道を走らなければならず、積雪地域のため訪城できる時期は限られる。その点では難易度が高いが、いつ訪れても草木が生い茂ることなく、堀や土塁のフォルムがくっきり。また、城内の高低差がさほどないため、登り下りすることなく存分に縄張の妙を堪能できる。 【画像】もっと写真を見る(10枚)
柴田勝家の本陣 きれいに残る遺構
玄蕃尾城は、1583(天正11)年に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が本陣とした城だ。織田信長が横死した後に覇権を争った柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉が、賤ヶ岳付近(滋賀県長浜市木之本)で激突。勝利した秀吉が天下人へ大きく近づいた出来事である。 玄蕃尾城があるのは、福井県敦賀市と滋賀県長浜市の県境、内中尾山(柳ケ瀬山)だ。滋賀県では「内中尾山城」とされ、史書にもそう記される。玄蕃尾城の名称は勝家の甥(おい)・佐久間玄蕃允(げんばのじょう)盛政にちなみ、かつては佐久間盛政の陣城として認識されていたらしい。 これほど良好に遺構が残っているのは、戦況の急変により勝家が撤退したからだろう。勝家は居城の北ノ庄城(福井市)に戻って自刃し、賤ヶ岳の戦いは終息。玄蕃尾城もそれとともに廃絶したと考えられている。となれば、玄蕃尾城が機能したのはわずか1年足らず。使用期間と築城者、築城目的がはっきりしている、構造の意図や目的が読み解きやすい城でもある。
卓越した空間設計力 巧妙に敵を迎撃
縄張の特徴は、直線的であることだ。基本的に塁線は直角に折れ、スパッと潔い、気持ちのよいシルエットに仕上がっている。しかしその直線が単純に紡がれるのではなく、虎口と馬出を織り交ぜながら曲輪(区画)と曲輪を結びつけ、分子構造式のような幾何学的な縄張を生み出しているのがこの城のたまらないところ。最短距離で乱射なく横矢を掛けるようなスマートな空間設計力に感嘆する。 主郭を中心に見ていけば、縄張の巧妙さが理解できるはずだ。約40メートル四方の主郭には南・北・東側の3面に小さな曲輪(馬出郭・馬出郭・張出郭)が接し、3方向に派生していく。これらの曲輪は取って付けたものではなく、「馬出」や「出城」のような機能を持ち、敵が迫れば強烈に働く。主郭に通じる虎口の前面に突出した、恐るべき迎撃空間になっているのだ。 もちろん、この三つの小曲輪だけで主郭を守るわけではない。3方向に派生するラインを基軸として、曲輪や堀、土塁などが絶妙に配されて、高低差と凹凸を巧妙に活用した戦闘空間がつくり出されている。 とりわけ身震いするのが、主郭南側の馬出郭とその周辺の設計だ。曲輪の南・北側は堀切でがっちりと分断され、まさに前衛基地。敵に対する三方は土塁で囲まれ、北側の主郭とは土橋で連結されている。ちなみに主郭西側は、かなり削り込まれた高さ8メートルもの切岸が立ちはだかる。長大な横堀とセットで厳重に防御を固めていて近寄れない。 南側馬出郭の開口する北西隅は、南西側の曲輪(虎口郭)と連結していて、土塁で通路を完璧に規制しているのがすばらしい。虎口郭から侵入しようとする敵は、モノレールの車体とレールのようにがっちりと足元を固められ、強制的にこの曲輪と並行して進まされることになるのだ。主郭から城兵の目線で見下ろすと、常に敵兵を視界に捉えられることに気づく。攻撃の手を止めることなく仕留められる、無駄のない設計だ。 つまり、この二つの曲輪は馬出が二つ重なったような構造になっているのだ。虎口郭は東側を張り立たせてあり、土橋を渡ってきた敵を正面から徹底的に射撃可能。虎口周辺の、敵の足を止めて集中砲火できるつくりもまた、度肝を抜かれる。 馬出郭は、南東側から攻めてくる敵にとっても脅威となる。南東側の谷筋からの侵攻も想定し、抜かりなく備えているのだろう。それもそのはず、東麓(とうろく)には北国(ほっこく)街道が走るのだ。腰曲輪で周囲を見渡すと、馬出郭だけでなく主郭南東側の張出郭も視界に入る。張出郭は出丸のように機能し、馬出郭と連動して強烈な挟撃を可能にしているというわけだ。 谷筋から攻め上がった敵は腰郭に集められ、左右から矢の雨を降らされる――。その戦略がわかった瞬間、難しい数式が解けたときのような爽快感が駆け抜ける。そう、脳内シミュレーションで得られるこの快感こそが縄張の妙を楽しむということなのだ。