「プロでいい思い出ない」高卒2年目で引退の理由は…「育成契約を拒否」自ら退団を選んだ男たち
隠れた逸材の発掘や未完の大器の育成を目的に2006年から導入された育成選手制度は、近年では支配下の登録枠を空けるための格下げやFAの人的補償逃れなど、ルールの抜け道的手法が用いられることも多くなった。その一方で、支配下へのこだわりから、中途半端な立場の育成契約を拒否して退団した選手たちも存在する。 【写真】「2億円」が「400万円」に急降下 球史に残る“大減俸”を味わった選手がこちら “育成拒否退団”第1号は、2005年の高校生ドラフト5巡目で中日に入団した金本明博だ。 酒田南高時代に2年連続夏の甲子園に出場した金本は、中日に投手として入団も、1年目はウエスタンで登板1試合、1/3イニングを3失点で防御率81.00に終わった。 2年目は内野手にコンバートされたが、開幕前に育成契約の中村紀洋が支配下登録され、枠が上限の70人になった結果、思わぬ割りを食うことになる。 07年4月26日、球団は1枠余裕を持たせるため、金本をウエイバー公示することを決めた。7日間、他球団のオファーがなく、自由契約になったら、育成選手として契約を結び直す方針だった。 「金本君は4月に投手から野手に転向したということで、今年のウチの1軍昇格を考えづらいので、本人と話し合ったうえで納得してもらった」(井手峻編成担当)。 本来の育成枠の目的と明らかに異なるやり方に対し、選手会は“悪しき前例”になりかねないことを危惧し、「本当は『明日から(試合を)やりませんよ』と言ってもいい問題」(宮本慎也会長)と猛反発。本来シーズン終了後に行うウエイバー公示をシーズン中に行うことを問題視したセ・リーグも、球界全体のリスクを考慮し、野球協約でウエイバー公示の申請を取り消す権利が規定されていないことを承知のうえで、中日の2度にわたる申請を相次いで却下した。 中日側は協約違反としてコミッショナーへの提訴も考えたが、5月11日、「裁定いかんでは他球団との関係がぎくしゃくしかねない」(西川順之助球団社長)と断念。この結果、金本は支配下にとどまることになった。