「プロでいい思い出ない」高卒2年目で引退の理由は…「育成契約を拒否」自ら退団を選んだ男たち
だが、同年、ウエスタンで出場わずか5試合に終わり、球団から育成格下げを打診されると、拒否して自由契約になり、高校卒業からわずか2年で現役を引退。「プロではいい思い出はなかった」というコメントも頷けるものがある。 育成としての再契約を拒否し、トライアウトを経て他球団に移籍したのが、巨人・大立恭平だ。 09年、岡山商大から育成4位で巨人入りし、中国六大学リーグ出身のプロ野球選手第1号となった大立は、三振奪取率が高く、MAX152キロ左腕と注目されたが、大学2年時に肩を痛めて以来、故障がちな体質に悩まされていた。1年目の春に将来を考えて手術に踏み切ったものの、2年目の春にも肩の不調を訴えるなど、なかなか持てる力を十分に発揮できない。 3年目の12年、ようやく首脳陣に認められ、山口鉄也に続く育成出身左腕を目指した大立は、中継ぎ左腕候補としてキャンプからオープン戦まで1軍に帯同、開幕1軍は逃したが、4月に待望の支配下をかち取った。 だが、今度は5月に左の前腕部を痛め、2カ月離脱、せっかく出場が決まっていたフレッシュオールスターも辞退した。そして、1軍に昇格できないままシーズンを終え、球団から育成再契約を持ちかけられると、支配下からの再降格に納得できず、自らの意思で退団。トライアウトを受験してソフトバンクへの移籍が決まるが、ここでも育成契約だった。 心機一転新天地で再スタートした大立だったが、13年はウエスタンで登板1試合に終わり、たった1年で戦力外に。再びトライアウトに挑戦も、獲得球団はなく、ついに現役を引退した。 入団1年目の夏に支配下登録されながら、ケガで3年目は育成格下げ。さらに4年目も育成を打診されると、他球団でのチャンスを求めて自由契約を選んだのが、巨人・山下航汰だ。 健大高崎時代、17年のセンバツで2本の満塁本塁打を放つなど、高校通算75本塁打を記録した山下は、18年の育成1位で巨人入り。本指名ではなかった悔しさをバネに、イースタンで打率.316、3本塁打、18打点と結果を出し、7月5日に支配下登録された。そして、1軍昇格後の9月4日の中日戦でプロ初安打を記録。2軍でも最終的に打率.332をマークし、高卒1年目の選手では92年の鈴木一朗(後のイチロー、オリックス)以来の首位打者に輝いた。