【財政破綻国家スリランカを歩く(第6回)】かつて輸出量世界一“セイロン・コーヒー”のルネッサンス
現在のスリランカ庶民のコーヒー事情
クイーンズ・ホテルの受付によると近くに本格的な美味いコーヒーハウスがあるという。現在のスリランカでは紅茶ほどではないが、コーヒーもよく飲まれている。コーヒーの置いてあるゲストハウスもありエスプレッソのように細かく粉のように挽いたものをカップに入れて上から熱湯を注いで、粉が沈んだ後の澄んだ部分を飲むというのが簡便法である。町の食堂では濾過器のような筒形の容器に粉を入れて熱湯を注ぎ濾過したコーヒーを出す。コーヒー豆は輸入豆(恐らく安物の)をブレンドしたものだ。 スーパーで袋詰めの挽いたコーヒーを売っているが、値段的にもネスカフェのインスタントコーヒーのほうが贅沢品の扱いである。
日本人経営のコーヒーハウスで知ったセイロン・コーヒーの栄光の歴史
コーヒーハウスは意外にも日本人経営(オーナーは不在だった)であり、壁に“スリランカ・コーヒー復活”のキャンペーン・ポスターが貼ってあった。セイロン・コーヒーの歴史を紹介している。 なんと17世紀には英国人により、セイロンでコーヒーが栽培され輸出されていた。そしてロンドンではカフェ文化が花咲き熱狂的なコーヒーブームが起こった。1860年代にはセイロンは世界最大のコーヒー輸出地となった。1864年にはコーヒー豆輸送のためにセイロンで初の鉄道が開通。これらの鉄道はスリランカ国鉄に引き継がれ、現在でも公共交通として現役である。当時世界の3大コーヒー産地は英国領セイロン、ポルトガル領ブラジル、オランダ領インドネシアであったという。 ところが、1870年代に発生した”さび病”(rust disease)が徐々に広がり、1890年代にはセイロン島でのコーヒー栽培が大打撃。それゆえ20世紀になるとコーヒーの木は密林の奥で奇跡的に残った例外を除いてセイロン島からなくなったという。ちなみにキャンディーで長逗留したゲストハウスの裏庭にはその奇跡のコーヒーの木が1本だけひっそりと生き延びていた。 そして1890年代に壊滅したコーヒー農園を次々に買い取り大規模な紅茶栽培を始めたのがリプトン紅茶の創始者サー・トーマス・リプトンである。この時代にセイロンのプランテーションの主役はコーヒーから紅茶に大転換したのだ。