景気が良くても物価が上がらない理由は、「過去の苦い記憶」のせい?
失業率が2%台前半まで低下するなど、数字上はかなり景気拡大が進展しているにもかかわらず、「景気拡大の実感が湧かない」という話をよく見聞きします。このように人々の景況感が回復しないことが日本経済の最大の問題点かもしれません。日銀の黒田総裁もそれに頭を悩ませている模様です。 6月15日の金融政策決定会合後の総裁会見で以下のようなやりとりがありました。記者からの「(欧米中銀と) 似たような量的緩和をやりながら、なぜ日本だけ物価が上がらないのかという、この日本の特殊性について、日本銀行が以前から説明しているようなメカニズムのほかに、考えていなかったようなメカニズムが、今、発生しているのか?」という質問に対して、黒田総裁は「わが国独自の特殊な要因として、やはり1998年から2013年まで15年続いたデフレ、低成長というものが、一種のデフレマインドとして企業や家計に残っています」と回答しました。欧米対比で根強いデフレマインドがその原因であるとの主張です。
日銀レビューなどで触れられている「履歴効果」とは?
こうした説明の背景には「日銀レビュー」や「日本銀行ワーキングペーパーシリーズ」で度々触れられている「履歴効果」というものがあります。これらレポートによると履歴効果とは「景気循環と経済成長の連関について議論する際、景気循環が経済成長トレンドに及ぼす影響と、経済成長トレンドが景気循環に及ぼす影響の二つの因果関係を峻別する必要がある。このうち前者の、景気循環が経済成長トレンドに及ぼす影響は、『履歴効果』とも呼ばれている」とされています。 やや抽象的なので、少し噛み砕くと「景気循環の過程で経済的危機を経験すると、その苦い記憶が残存することから、危機が終わっても人々は消費や雇用や設備投資を元に戻さないため、その後の成長トレンドが鈍る」という具合です。つまりバブル崩壊、金融システム不安、リーマンショックといった経済的ショックを相次いで経験した日本経済の成長トレンドが鈍化したのは、ショックが過ぎ去った後も、人々の恐怖心が消費や雇用や設備投資を抑制した結果、経済の体温である物価が上がらなくなった、という説明です。 ショック前後で経済パフォーマンスに断層が生じた理由に履歴効果があるのなら、それを金融政策によって和らげることが中央銀行の急務になります。そうした履歴効果の分析において、前出の両レポートはどちらもイエレン前連邦準備精度(FRB)議長の主張に触れています。FRB議長であった2016年にイエレン氏は「負の履歴効果が存在するならば、政策によって総需要を長期間刺激し続ける『高圧経済』を維持していけば、逆に、正の履歴効果が起きる可能性もある」と発言しています。 高圧経済とは、景気が過熱気味なのにさらに景気刺激策を講じることで設備投資や雇用を促していく状況のことです。イエレン議長は、高圧経済の実現によって人々の苦い記憶が払拭され、経済がショック前の状態に戻る可能性を指摘したわけです。 日銀のレポートは、高圧経済の正当性や必要性を記述しているわけではありませんが、こうした発言は「根強いデフレマインドを払拭するために粘り強く、強力な金融緩和を続ける」という日銀の主張にかなり近く、逆に言えば、黒田総裁の見解はすでに高圧経済の正当性を説いている、との見方も可能です。つまり日銀は、デフレマインドというある種の履歴効果を払拭すべく、金融緩和を続けているということです。 以上、「履歴効果」がマクロ経済にどういった影響を与え、それを中央銀行である日銀がどのような形で金融政策に反映させていくのか、といった観点から現在の日本経済を解説してきました。金融政策に関心の薄い方には、やや縁遠い話に聞こえたかもしれませんが、履歴効果とは心理的要素を含んでいるという点において非常に身近な経済的現象といえます。このように人々のマインドが現実の経済活動や経済政策に影響を与えているのは、大変興味深いことです。 (第一生命経済研究所・主任エコノミスト 藤代宏一) ※本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所経済調査部が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。